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あがきを疾み(あがきをはやみ)  作者: 理猿
第三章 クラシックへ続く途
38/99

天離る

「今日はいつもよりみんなそわそわしてますね」

 隣に座る末崎が耳打ちしてくる。

 今日は来週末に行われるG3共同通信杯の共同記者会見の日だ。栗東トレーニングセンター内に設けられた会見場で代わる代わるに調教師が会見席に座る。

「今年のクラシック本命馬が出走するレースだからな。そりゃあ気合も入るだろ」

 後ろに座る記者が質問のために立ち上がる。

「――今回のレース、あのアレクサンダーが出走されますが――」

「ストップ」

 田知花(たちばな)調教師が不機嫌そうに発言を遮る。会場の空気が張り詰める。

「……なにか?」

「なにか、じゃねえ。さっきからずっと聞いてたが、二言目にはアレクサンダー、アレクサンダー……。

 まったく、うんざりだ。

 記者の奴らだけじゃねえ。他所の馬なのに、どいつもこいつもおべっか使いやがって」

 角張った銀縁の眼鏡の奥から眼光鋭く調教師たちを睨みつけた。その視線に、ある者は顔を逸らし、ある者は体を小さく丸めた。

 田知花調教師は栗東トレーニングセンターの重鎮だ。

 齢六十八歳。しゃんと伸びた背筋と目力は昔から変わらず、老いを感じさせない。人間、年を取れば丸くなるものかと思っていたが、丸くなるどころか刃物を研磨するように日に日にその鋭さを増している。

 これまで数々の名馬を育ててきたことはもちろんのこと、後進の育成にも力を注ぎ、彼の教えを受けた騎手、調教師は数えきれない。

 由比調教師もその一人だ。

「まだたったキャリア二戦の馬だぞ。こっから鳴かず飛ばずになる早熟馬なんてこの目で腐るほど見てきた。

 それなのに三冠は規定路線とばかりに持ち上げやがって。俺に言わせりゃあイスカンダルのほうがずっと強かったね。

 お前もそう思うだろ、由比!」

 田知花が出番を控える由比調教師に向かって強く言葉を投げつける。

「……私と会話をする時間じゃないでしょう、田知花先生。今は会見中ですよ」

「バカ野郎。そんなことは俺が決めるんだ。

 答えろ由比。イスカンダルを育てたお前が」

 田知花調教師は構わず続けた。由比調教師は表情を変えずに小さく息を吐く。

「あなたの言う通りアレクサンダーはキャリア二戦の若馬だ。今はまだイスカンダルには遠く及ばないでしょう。――だが、だからといってあの馬の未来を断定するのは早計すぎるんじゃないですか?」

「……ふん、余裕だなあ。

 そんな態度を取ってられるのも今のうちだぞ。今回のレースはうちのアマサカルが勝つ。朝日杯だってこいつがいなかったからお前たちは勝てたに過ぎない」

 その発言に記者席が小さくざわついた。

 アマサカル。

 このレースでアレクサンダーに次ぐ有力馬だ。

 ここまで三戦三勝。昨年のG2デイリー杯二歳ステークスの勝ち馬である。

 父が欧州のマイルで活躍し、引退後日本で種牡馬入りしたキロノバ、母が米国のダート短距離馬ということもあり、マイルから短距離での活躍を意図した配合であろう。実際にレースで見たことがあるが、マイラーよりの筋肉質な肉体を持ち、逃げ先行からの力強い押し切り勝ちが印象的だった。

「……すごい自信ですね。もしかして、もしかしちゃいますか?」

 末崎がこちらに囁いた。

「ん?……んー……」

 競馬に絶対はない。

 競走馬が生き物である以上、レース当日に奇跡やまぐれと呼ばれる類のことが起きないとも言えない。それにどんなに名馬であっても無敗で生涯を終えることができたのは長い歴史を振り返っても数えるほどしかいないのも事実だ。

 ぽつぽつと質問が続いた後に田知花調教師の番が終わり、由比調教師へと主役は移る。

 しかし、由比調教師は会見席で座ることなくこちらを向いて立ったままだ。着席を促されるが微動だにしない。

「……あの、どうかされましたか?」

 進行役を務める若い職員が恐る恐る尋ねた。

「質問の前にひとつだけいいかな?」

 職員は少し戸惑った後に首肯する。一拍置いた後、由比調教師は静かに話し始めた。

「競馬に絶対はない。

 だが、私の人生でそう思わせてくれる馬がいた。一頭はイスカンダル。そして、もう一頭は――」

 

「――アレクサンダーだ」

 

『いったいった! 一着アレクサンダー!

 他馬を全く寄せ付けず、はるか後方に置き去りです! 二着アマサカルも茫然!

 皐月賞へ期待が高まります!』

「……やば……」

 末崎が茫然とターフを見る。

 共同通信杯当日、大方の予想通り断然の一番人気だったアレクサンダーが最初にゴールラインを越えた。しかも二着以降の馬との差は“大差”、つまり十馬身差以上だ。

 他の馬、特に記者会見で田知花調教師があれだけ自信を持っていたアマサカルが弱かったのかと言えばそうではない。二着につけたアマサカルはその後ろとはさらに三馬身ほど離れている。

 この結果が示すのはあまりに残酷な格の違いだ。

 これまで新馬戦、朝日杯フューチュリティステークスと見てきたが、アレクサンダーはレースを重ねるほどに強くなっている。

「たしかにこの馬が負ける姿は想像できないな」

 レースを終え、勝利騎手インタビューに移る。観衆の注目が集まるなか由比にマイクが向けられた。初々しさがありながらも、由比は慣れた様子でインタビューに答えていく。

「今日も圧倒の内容でしたね。これでデビューから無傷の三連勝、重賞も二勝目ということになりましたが皐月賞への意気込みはいかがでしょうか?

 みなさん期待されてると思いますが」

「もちろん勝ちにいきます。

 父であるイスカンダルも勝った舞台なので。あとは僕が全力を尽くすだけです」

「ずばり、ライバルは誰になりますか?」

 由比は数秒宙を見つめた。

「ライバル……、手強い相手はたくさんいますが、ちょっといますぐには挙げられないですね。

 ――でも、楽しみにしてる人ならいます」

「楽しみにしてる“人”?」

「はい。きっとアイツなら皐月賞に出て来るはずです」


『どうすればいいですかね?』

「なんだよ唐突に」

 電話に出ると相手が誰かはすぐに分かった。日鷹だ。そういえば以前連絡先を交換していた。

 オフの日にわざわざなんの用だろうか。

『猿江さんが困ったらいつでもかけてこいって言ったんじゃないですか』

「そんな事は言ってない。だいたいお前がしつこく聞いてくるから仕方なく番号を教えたんだ」

『そうでしたっけ?』

 電話口の声はあっけらかんとしている。

「……用がないなら切るぞ」

『ちょっと待ってくださいよ! アドバイス貰いたくて電話したんです!』

「アドバイス? だったら咲島先生にでも――」

 いや、聞けないからわざわざ俺に電話してきたのか。まったく、またなにかあったな。

『絶対スプリングステークスで皐月賞への優先出走権を獲得しないといけないんです。だから、お願いします!』

「……はあ、アドバイスってなにを聞きたいんだよ」

『! はい、この前のシンザン記念なんですけど』

「……ちょっと待ってろ、いまレース映像探すから」

『ありがとうございます!』

 近くに置いてあるタブレット端末から映像を探していく。映像はすぐに見つかった。

『レース前に全馬の走ったレースはチェックしたし、展開の予想もハマった。いけると思ったんですけど……』

「相手が悪かったな」

 映像のなかでアマクニが直線で他馬を次々と抜いていく。

『アマクニはたしかに強かったです。

 でも、クラッシュオンユーはアマクニに負けないくらい強い馬なんです! 絶対!』

 日鷹が語気を強めた。

 随分と思い入れのある馬らしい。まあ、初重賞戦の馬となれば当然か。

「じゃあ、悩むことなんてないじゃないか」

『え? なんですか? 教えてください!』

「このクラッシュオンユーがどうこうの前に、お前が一皮剥けなきゃいけないってことだよ」

『……でもこれ以上どうしたら……』

「お前に圧倒的に足りないのはレースでの経験だ。

 ただ乗るだけじゃない。すべてを肌で感じ、レースに対する感覚を研ぎ澄ませていく。

 これはデータを見るだけじゃ培うことはできない。そして他人に教えてもらうことじゃないし、教えてもらえるようなもんじゃない」

「……レースに対する感覚」

「まだデビューして一年も経ってない下手くそのくせに頭でっかちになってどうする。残り一か月。死ぬ気でレースに乗って、死ぬ気で経験を得てこいよ」

 日鷹が黙り込む。少し言いすぎただろうか。

「……まあ、その、なんだ――」

『よかった』

「……あ?」

 日鷹が安堵のため息をつくのがわかった。

『私、まだ下手くそですもんね!

 いや、当たり前なんですけど、なんかわかんなくなっちゃってて。でも、まだまだ上手くなれる。いや、絶対になります! 

 先輩に電話してよかったです! ありがとうございました!

 もし先輩が困ったときにはいつでも相談してくださいね!』

 こちらが返事をする前に電話は切れた。嵐みたいな奴だ。

「……しねえよアホ」

 手元のタブレット端末ではレース映像が繰り返し流れる。

「……あと、一か月か」

 今日の最高気温は十二度。春は確実に近づいていた。

次回は1月14日(火)更新予定です。

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