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あがきを疾み(あがきをはやみ)  作者: 理猿
最終章 冬、奇跡再び
106/106

加速してゆく

「お願いします」

 スタンドで一人。日鷹みどりは絞り出すように小さく呟き、固く握り締めた両手を祈るように額に寄せる。

「お願いします」

 どんな結果でもいい。怪我も事故もなく、ただ無事にゴールまで辿り着いてくれればいい。勝ち負けなんてどうでも――

 そう、心のなかで唱えようとした言葉を止める。

 みどりは静かに顔を上げた。ターフを駆ける青を見つめる。ただひたすらに前を向き馬を追う青を。 

 青。大洋。競馬のなにがあなた達をここまで引き寄せてしまうの。ただ馬に乗って走るだけなのに。そう。ただそれだけなのに。

 きっと、一生かかっても私にはわからないだろう。でも、そんなあなたたちを私は止めることができなかった。純粋な子供のように夢を追うあなたたちを。そのまっすぐな姿が少し羨ましかったのかもしれない。

 だから、

「――頑張れ、青」

 さっきよりも少しだけ大きな声でそう呟いた。

 

  

 青はクラッシュオンユーを鞭で追う。長かったレースも残りあと僅か。ゴール板はもうすぐそこだ。

『残り百五〇――一〇〇を切る!』

 大外、トルバドゥールが手前を替える。肉食獣のような靭やかな伸展。唸りを上げる。その内、アレクサンダーもまた雷のように雄大な音を響かせて地面を叩く。

 魔王と雷霆。

 四歳と三歳。世代最強の名に恥じない圧倒的な強さ。あらためてその壁の高さに圧倒される。

『ここでトルバドゥール僅かに抜け出す! アレクサンダーも食らいつきます! ここで二頭のマッチレース――』 

 横並びだった三頭。クラッシュオンユーが僅かに二頭に後れを取る。

「……くそっ……!」

 ――どうする。

 どうにか絞り出したか細い声。

 どうすればいい。勝つためにはどうすれば。

 ――だめだ。まったくなにも浮かんでこない。

 勝利を渇望する思考とは裏腹に頬が歪む。勝たせるなんて格好良いことを言ってみても、どうも私はまだまだ格好悪いままだ。あの日、あの有馬記念の日、こんな世界があるんだって思った。私はまだ、その世界に追いついていない。

 あの日騎手になろうと誓った。ただ前のめりに、ただ倒れないために一歩踏み出した足。その足跡がひとつ、またひとつと増えていき、だんだんと速くなって、私はいつのまにかここまで走ってきた。だからわかる。走るって傍から見るより全然格好良いものでも楽しいだけのものでもない。怖いし、疲れるし、苦しくなる。――でも、ただ外から眺めていた時よりもずっとずっとドキドキしてしまう。

 私は今どれほど速く走れているだろうか。

 どれほど速く走ることができれば彼らを追い越していくことができるのだろうか。 

 だからって最短で易しい道程なんていらない。どんなに長く険しく果てしない道でも、どこまでも速く駆け抜けることのできる脚が欲しい。そのためだったら何を差し出したっていい。

「……負けたくない」

 負けたくない。負けたくない。負けたくない。

「……ああ」

 そうだ。

「――ああああああああ!!!」

 負けたくない!

 言葉にならない想いが行き場をなくし身体の中から叫びを上げる。負けたくない。誰よりも速く走りたい。クラッシュオンユーが呼応するように速度を上げていく。

 クラッシュオンユーは再び二頭を捉える。

『クラッシュオンユー食らいつく! 終わらない、まだ終わりません! トルバドゥール、アレクサンダー、クラッシュオンユー! ここで再び並びます!』

 クラッシュ、私があなたを勝たせる。

 あなたは、私を勝たせてほしい。

 ふたりで勝とう。私たちで勝とう。

 青は唇を引き結ぶ。早鐘を打つ心臓。肺に取り入れた酸素はすぐに熱い血潮に溶けて身体中を駆け巡る。細胞が目覚め、骨が軋み、筋肉が弾ける。

 正面から吹き荒ぶ猛烈な風が皮膚を裂いていく。

 剥き出しにされる真っ赤に脈打つ魂。神経が痛いくらいに研ぎ澄まされる。身体が、想いが、風に溶けていく。

 残り数完歩。 

『抜けたっ! クラッシュオンユー抜けたっ!』

 ぐんっと完歩が伸びる。その脚がたしかに風を掴む。

「いっけえええええええ!!」

 一際強い風が吹く。クラッシュオンユーの四肢が飛ぶ。その身体が空を駆ける。

 僅かに早く、鼻先がゴール板を通過した。

『クラッシュオンユー一着! クラッシュオンユー一着! クラッシュオンユーが、トルバドゥールを、アレクサンダーを、なんとクビ差躱して有馬記念を制しましたっ!

 今年の有馬に奇跡再び! クラッシュオンユー、日鷹青が奇跡を呼び込みました!』

 どよめき。そして沈黙。

 少し遅れてぽつぽつとあちこちで喚声が上がる。どこかで鳴った口笛の音を合図に拍手が沸き起こる。スタンドが歓喜に大きく波打った。

 ゴール板を過ぎて第一コーナー手前の直線で青はようやく呟く。

「……勝っ、た……?」

 全身から一気に力が抜ける。鞍から滑り落ちるすんでで慌てて手綱を握り直し体勢を整えた。クラッシュオンユーの首筋を撫で、そのままそっと顔を埋める。熱をもった皮膚。荒い荒々しい呼吸音が伝わってくる。

「……クラッシュ。勝ったんだよ、私たち」

 言葉を噛み締める。そう。勝ったんだ。

 デビュー戦で惨敗し、三戦目で初勝利。初重賞のシンザン記念でアマクニに負け、続くスプリングステークスで皐月賞への切符を勝ち取った。全力を出し切った皐月賞でアレクサンダーに完敗。怪我を経た札幌記念でリアルビューティを倒したものの天皇賞秋では成すすべもなくトルバドゥールにやられた。そうして迎えた有馬記念。

 ついに私たちは勝った。

「青ちゃん」  

 背後から声を掛けられる。振り向くと馬上で那須が微笑み、胸元で小さく右手を掲げた。青は大きく頷く。

「――はいっ」 

 高々と拳を青い空に突き上げる。それを見たスタンドの喚声がまた一段と大きくなった。クラッシュオンユーは駈歩でコーナーを緩やかに回る。スタンドが後ろに遠ざかっていく。

 ああ、いつまでもこうして走っていたい。クラッシュとなら、きっと私はどこまでも行ける気がする。もっと速くなれる気がする。

 きっとそうだ。


 どこまでもどこまでも。

 私たちは、加速してゆく。

 ここまでお付き合いいただきありがとうございました。全106話、期間にして2年。紆余曲折、右往左往ありましたが趣味で書いてきてはじめてちゃんと完結することのできた作品となりました。

 日鷹青の物語は一旦幕を閉じますが、まだ書いているうちに書きたいエピソードもいくつか浮かんだのでそちらはいつか短編形式で発表できたらと思います。

 それではまた、物語の世界でお会いすることができれば幸いです。

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