水辺の異変
京の夏は厳しい。だが道場は、ぎらつく太陽よりも激しい熱気を放っている。
風はなく、障子の向こうの空気すら、じっとりと重い。蝉の声だけが、やけに遠く響いている。
「悪い おくれたー」
沖田総司が軽やかに、小走りで道場に入ってきた。
「大変だったみたいだな」
「ああ、ちょっとあってさー。でも、まあなんとか落ち着いたよ」
「おー、飯食ったか?」
斎藤が軽く刀を拭きながら口を開く。
沖田は額の汗をぬぐい、少し息を整えながら答える。
「もう時間なくてさ……さっき飯を自分でぎゅっと握って、かっこんだよ」
「ご苦労だな」
「全くだね。さあ、かわるよ」
新撰組に剣の稽古は欠かせない。
自分の稽古とは別に、若い隊士の稽古を見るのも、沖田や斎藤ら副長助勤の役目である。
沖田は、前夜の夜勤のトラブルの後始末や、面倒な報告書に追われていた。
「まったく、寝る時間は少ないし、飯もろくに食えねえのに、稽古は休めねえし……」
永倉も苦笑し、刀を膝に置く。
「ああもう、稽古サボって寝たい。稽古終わったらまた巡察。今日は早番だよ」
沖田は微笑みながら、軽口のように愚痴をこぼす。
いつもと変わらない、日常だった。
沖田総司は、竹刀を構えたまま一歩踏み込んだ。
足袋の裏が、汗でわずかに滑る。視界が、ほんの一瞬、白くかすむ。
「……ふう、やばい、喉がからからだあ。ちょっとだけ水のんでくるよ」
そう言い置いて、沖田は水飲み場へ向かった。
桶の水で冷やした茶碗に手を伸ばした、その時だった。
ぐらり、と視界が揺れる。
「……っ」
こみ上げる強烈な吐き気。
思わず膝をつき、激しく嘔吐した。
肩が震え、息が乱れる。
「ごほっ……ごほっ……!」
だが、
吐いた後も、咳き込みが止まらない。
喉に絡みつく感覚。
息が吸えない。
視界が暗くなる。
再び込み上げた吐瀉物が、呼吸を塞いだ。
「……っ、ぁ……」
もがくように地面を掴む。
だが、
力は急速に抜けていく。
音が、消えた。
蝉の声も、
風の気配も、
何もかもが遠のく。
ただ、息が——できない。
ワンッ!
鋭い犬の吠え声が、庭に響いた。
ワンワンワンッ!!
顔を覗き込むように、シロが激しく吠え続ける。
鼻先でつつき、袖を引く。それでも沖田は動かない。
ワンワンワンッ!!
その異様な吠え声に気づき、市村が様子を見に来た。
「シロ? どうした——」
足を止める。
「……っ」
「沖田さん!?」
恐る恐る近寄り、肩を揺する。
だが、ぴくりとも動かない。
「だ、誰か来てーー! 大変だ!!」
慌てて道場へ駆け込む。
「沖田さんが、倒れてて……動きません!」
斎藤が真っ先に飛び出した。
永倉、そして原田左之助も続く。
「総司!」
永倉が抱き起こすが、体はぐったりと力がない。
喉が、あぶくのような音を立てている。
「……っ」
その音に、空気が凍る。
斎藤は一瞬で状況を察した。
「吐瀉物が詰まっている! 息ができてない!」
「顔を横に!」
原田が体を横向きに支える。
斎藤はためらいなく指を口内へ入れ、詰まったものを掻き出す。
「永倉、背中を!」
ドンッ、ドンッ、と強く叩く。
反応が、ない。
「総司、息をしろ! 聞こえるか!」
原田の声は怒鳴るようで、どこか震えている。
市村は真っ青な顔で立ち尽くし、シロはなおも吠え続ける。
斎藤の額から汗が滴る。
「……まだだ」
低く呟く。
「もう一度!」
ドンッ!!
強く背を叩く。
——沈黙。
ごほっ、
かすかな音。
沖田の体がびくりと震え、
口からどろりとした塊が吐き出された。
「……っ、は……っ」
ひゅ、と掠れた音で、空気を吸う。
浅く、途切れながら——
だが、確かに。
生きている呼吸。
永倉が息を呑む。
「……生きてる……」




