第六十六話 義元入洛
永禄六年九月。今川・浅井連合軍三万八千は、ついに山城国へと足を踏み入れた。近江を電撃的な速さで平定した勢いは衰えず、京の喉元を締め上げる巨大な大蛇の如く進軍を続けた。
上洛軍の前に立ち塞がるのは、三好家の防衛網を支える淀古城や勝龍寺城といった諸城であった。義元は激しい抵抗を予想し、柴田勝家や松平元康を先頭に据えて軍を進めた。
しかし、事態は意外な展開を見せる。いずれの城も、今川軍が陣を敷き、黄金の采配が一度振られるや否や、抵抗らしい抵抗もせず降伏、あるいは兵が去った後の無人の城として開城したのである。
「……拍子抜けであるな。三好の牙は、いずこに捨ててきたのであろうか」
先陣を進む柴田勝家が、血に飢えた槍を収めながら不満げに呟いた。三好家といえば、かつては細川氏を圧倒し、畿内を盤石に支配した「天下の覇者」である。その抵抗のなさは、あまりにも異様であった。
整然と京へ向かう進軍の最中、明智光秀と竹中半兵衛は馬を並べ、重苦しい表情で周囲の山々を見渡していた。
「十兵衛殿、この静けさ……どう見る」
半兵衛が扇子で口元を隠しながら問う。光秀は鋭い眼光を崩さぬまま答えた。
「異常だ。三好の主力は健在なはず。それにも関わらず、山城の要害をこうも容易く明け渡すとは。……これは敗北ではなく、『誘い』ではないか」
光秀の懸念は深かった。三好長慶の懐刀、松永久秀は知略に長け、合理を尊ぶ男である。それが無意味な敗走を続けるはずがない。
「左様。まるで、我らを最短距離で京の都、そして二条御所へと引き込もうとしているかのよう。……この先に、我らすべてを飲み込む巨大な陥穽があってもおかしくない」
二人の知将は、三好家内部で起きたある事実を知る由もなかった為、久秀の策の可能性に、万全の注意を払い続けた。
九月下旬。今川義元は、ついに京へと足を踏み入れた。
長年の戦乱と、三好・松永の圧政に疲れ果てた京の民は、黄金の甲冑に身を包んだ義元の軍列を、畏怖と期待の混ざり合った視線で見守った。
義元は入京するや、ただちに治安回復を最優先に命じた。
「これより京の街における乱暴狼藉、略奪を一切禁ずる。また、三好の徴収した不当な税は廃し、関所を即刻解体せよ。民には黄金の法による安寧を、商人には自由なる交易を約束する」
義元の布告は、またたく間に京の街々に広がった。略奪を恐れて戸を閉ざしていた町衆たちも、今川軍の統制の取れた振る舞いを見て、次第に街へと戻り始める。
京の治安が回復し、民が義元を「救世主」と仰ぎ始める中、義元本隊は静かに二条御所へと包囲を縮めていった。
驚くべきことに、将軍・足利義輝が御座す二条御所には、門番の一人すら立っておらず、それどころか、そこにいると思われた松永久秀の姿もなかった。久秀は自らの兵をすべて引き連れ、飯盛山城の長慶の元へと去り、御所を完全に放棄したのである。
広大な敷地を包むのは、耳が痛くなるほどの静寂。光秀と服部半蔵が事前に潜入し、床下から天井裏まで精査したが、火薬も伏兵も見つからない。
そこには、ただ一人、御座所に座す将軍・足利義輝だけが、伝来の名刀を傍らに置いて待ち構えていた。
「久秀すら、おらぬのか……。三好は、この都を投げ出したというのか」
光秀が息を呑む。あまりの虚脱感に、軍勢の間に動揺が走る。だが、義元だけは乱れなかった。
御所の入り口で義元が馬を止めると、その傍に控えていた義父・武田信虎が、かつての甲斐の守護としての威厳を湛えた声で、静かに促した。
「婿殿、公方様がお待ちだ。……この静寂、逃げ出した三好の臆病風ではない。足利の誇りが、其方の黄金の法を値踏みしようとしておるのだ」
信虎の言葉に、義元は深く頷いた。
「余が築く新しき世、まずはこの歴史の壁を越えねば始まらぬな」
軍勢が立ち並ぶ中、義元は静かに馬を降り、ただ一人の主が待つ、静寂の深淵へと足を踏み入れた。
誰もいない御所に、ただ独り座す剣豪将軍。久秀の気配すら消えた空間で、義元は何を語り、何を成すのか。
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