第百十七話 諸国の激動
二条御所から立ち上る煙は、やがて畿内を越え、日ノ本全土を覆う疑心暗鬼の暗雲へと姿を変えた。今川義元が「鬼丸国綱」を手にしたという事実は、武田信玄や三好三人衆の放った草たちによって、これ以上ない「弑逆の証拠」へと歪められ、諸国の耳へと届けられた。義元の掲げた「黄金の法」は、いまや「主殺しの野望」という泥にまみれ、各地の大名たちはそれぞれの思惑で動き出す。
窮地を脱した三好三人衆は、将軍暗殺の実行犯でありながら、厚顔無恥にも「義元討伐」の急先鋒を自任した。
「義元は公方様を欺き、その首と鬼丸を奪った。今こそ義栄公の下、讃岐・阿波の諸軍を合わせ、弑逆者を京から掃き出せ!」
彼らは四国の精鋭を招集すると同時に、紀伊にも参戦を求めた。根来・雑賀衆もまた、義元の急進的な統治を危惧し、三好と呼応して今川の背後を脅かす準備を始めた。
摂津、石山本願寺。門跡・本願寺顕如のもとにも、義元を逆賊と断ずる報が届いていた。顕如は義元が将軍を手にかけたという話には懐疑的であった。武門の頂に立とうとする義元が、自らの大義を汚すような真似をするとは思えなかったからだ。しかし、顕如が真に危惧していたのは、義元の掲げる「法」そのものであった。
「今川の法は、確かに民を戦から救うやもしれぬ。……だが、同時にそれは、王法が仏法を飲み込もうとする刃でもある」
義元の「黄金の法」は、万民に平穏を約束する反面、宗教の自由を縛り、既存の寺社勢力を国家の枠組みに組み込む強権的な側面を持っていた。もし義元がこのまま「絶対者」として君臨すれば、本願寺の自治も信仰の独立も奪われるのではないか。顕如は、今川を敵とするべきか、あるいは法の中に生き残る道を探るべきか、静かに天秤を揺らし始めていた。
越前の一乗谷。朝倉義景のもとには、縁戚関係である隣国・若狭武田氏より信じがたい急報がもたらされた。
「今川義元、将軍義輝公を弑逆せり」
この報に、名門の自負が高い義景は激昂した。
「足利の世を汚す無徳の徒、許しがたし! 義元が禅譲を迫り牙を剥いたのは明白なり!」
と断じ、即座に兵を整え始めた。
一方、近江の小谷城では、浅井長政が深い苦慮の中にいた。
「……治部大輔(義元)殿が、真に公方様を手にかけられたのか?」
長政は義元の知略と理想を高く評価していた。だが、朝倉からの執拗な出兵要請に加え、領内の国人衆からも「弑逆者を助けるのか」という突き上げを食らっている。義元を信じたい心と、朝倉との同盟、そして家中の突き上げ。板挟みとなった長政は、朝倉の要請に応じる形で兵を整えつつも、その矛先をどこへ向けるべきか、旗幟を鮮明にせず沈黙を保った。その動きは今川への敵対とも、あるいは牽制とも取れる危うい均衡を保っていた。
関東帯陣中の上杉本陣。上杉輝虎(後の不識庵謙信)は、三好や武田が流す「義元首謀説」を一蹴した。
「馬鹿げたことを。治部大輔ほどの男が、そのような浅ましい手段を選ぶはずがなかろう。これは三好三人衆が吐いた妄言よ」
輝虎は義元の潔白を直感で見抜いていた。そして義元が京で進めようとしていた「黄金の法」の本質も見抜いていた。それは、私欲を廃し、法によって万民を安んずるという、輝虎が理想とする「義」の形に極めて近いものであった。
「あの法は、この乱世を終わらせる光となり得た。それを善きものと認め、期待していたのはわしだけではあるまいに」
しかし、それと同時に彼の胸を焼いたのは、激しい憤りであった。
「されど、将軍家を後見すると豪語しながら、その眼前で公方様を死なせたのは、治部大輔の不覚。武門の棟梁を自称する資格なし!」
義元への潔白は信じつつも、守護の責を果たせなかった彼を助ける気にはなれず、輝虎は「静観」を決め込んだ。だが、その瞳は鋭く武田の動向を監視していた。
小田原城の太守・北条氏康は、この騒乱の背後に潜む武田の影を冷静に見定めていた。
「信玄め、義元の真っ白な法服に、消えぬ墨をぶっかけおったな……」
関東はおろか、日ノ本きっての民政家である氏康は、義元が駿河で発した「今川仮名目録追加」や、それと並び立つ自らの法「公事赦免令」を思い返していた。増えすぎた雑税を廃止し、民の負担を減らすことで国を富ませる。その革新的な統治の志において、義元は氏康にとって唯一無二の理解者であった。氏康は、傍らに控える幻庵へ向けて独り言のように漏らした。
「治部大輔ほどの男が、そのような浅ましい手段を選ぶはずがない。それに糸からの文によれば、今の駿府は活気にあふれ、氏真は領民の声を聞き、自ら政務を執っておるというではないか」
氏康の表情が、一瞬だけ柔和な父の顔になった。
「あやつが蹴鞠を捨て、民のために汗を流しておると聞いた時は耳を疑ったが、それも義元の背中を見て育ったゆえ。今や駿府は小田原にも劣らぬ発展を見せておる。その親子が、このような卑劣な罠で潰されるのは見るに忍びん」
氏康は、駿河を預かる氏真の目覚ましい成長と、娘・糸からの手紙に綴られる今川家の変わりようを密かに喜んでいた。それだけに、この窮地は看過しがたい。だが、公然と助ければ北条も四面楚歌となる。
「義元が倒れるようなことがあれば、氏真と糸だけは何としても救い出す。今川の血筋を絶やさせはせん」
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