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第31話・寝つけない夜、脱衣所の白い肌

 その後、お袋さんに勧められて俺たちは風呂に入ることになった。


 お風呂を焚くのにも魔溜石(まりゅうせき)のエネルギーが使われるため、あまり無駄遣いはできないらしく、普段はぬるめの湯によるシャワーで済ませることが多いそうだが、今日は俺たちが琴浦家で過ごす一日目ということで熱めのお湯を浴槽に張ってくれたと言うのだ。

 

 正直、俺の体は汚れている……。

『キャッスル』内のあの部屋にも簡易のシャワーがあったが、何せあそこにいた時は常に緊張感があったため、シャワーを呑気に浴びる気にはあまりなれなかった。

 

 それにあの場には石鹸がなかった。

 そのためここ数日は適当に体を洗い流すぐらいしかしていない。


 それに服装も毎日同じだ。季節は冬だが、もちろん汗は掻いているし、昼間は魔獣に襲われかけて土にまみれもした。

 だから清潔そうな姉妹に悪いと思って、先に風呂に入ることを躊躇(ちゅうちょ)した。


 しかし、「気にすることないよ。だったら先にシャワーを浴びてもいいし……」と、もっともなことを言われたので、遠慮しないで先に入ることになった。

 

 無神経男・鮫川(さめがわ)は最初から遠慮することもなく、俺よりも先に入って行った。

 

 俺よりも先に『キャッスル』を飛び出した彼は、その後世話になった家でどういう環境にあったのか詳しくは知らないが、そのスクールシャツはパンダのお尻みたいに明らかに黄ばんでいたし、無精ひげも汚らしい。むしろ俺よりも気に掛けるべきなのだが……。


 しばらくして、満足げな表情の鮫川が戻ってくる。

 お袋さんたちが農園帰りに立ち寄った店で買ったという薄茶の寝間着を着ていた。

 剃刀(かみそり)も借りたらしく無精ひげはなくなり、顔もいくらか、あくまでいくらか……さっぱりした印象を受けた。


「はい、カケル君も。これ、新しいから使ってね」と、俺もお袋さんに寝間着とタオルを渡された。

 その間には、薄墨色の短めのトランクスも綺麗に畳まれて入っていた。

「後ね、普段着も二着ずつだけど買ってきたのよ。そっちは古着になってしまうけど……。部屋に置いとくからね」


「本当にすみません、何もかも……」

「気にしないで!」と軽く背を叩かれ、そのままの流れで風呂場に向かった。


 風呂場は階段前にある扉から入った脱衣所の、右奥にある。琴浦家唯一のトイレもその手前の小さな個室にある。

 

 黒のマウンテンパーカー、灰色と白の縦縞が入った襟付きの長袖シャツと、その下の、週刊誌の見出しみたいにごちゃごちゃと英字が書いてある白いTシャツを脱ぐ。

 汚れた灰色のジーンズを脱ぎ、もう何日も穿いている汚らしいトランクスを脱ぎ捨て、裸になった。


 脱衣所には鏡があって、そこに映し出された自分の姿にうら悲しい気持ちになった。

 元々細身だったが、この数日間でさらに痩せたようだ。トランプのジョーカーに描かれている奴みたいに細い体だ……。


 すりガラスの引き戸の向こうは、洗い場と浴槽を合わせて八帖ほどの広さで、脱衣所よりはわずかに温かい程度だった。

 

 洗い場の壁には何やら湿った袋がぶら下がっている。袋の上から触ると固形物が入っているようだ。

 石鹸などは蛇口の上のせり出した場所に置いてあるので、袋の中は別の何かだろう。

 

 興味本位で袋を覗くと、中には500円硬貨ほどの大きさの赤い石が入っていた。

 指先でつまみ上げると、(ほの)かに光る。

 神秘的な光で、すぐにそれが例の魔溜石と呼ばれる物だとわかった。おそらく、風呂を焚く際に利用されるのだろう。


 シャンプーのようなものがないので、石鹸で髪を洗い、体も洗って、浴槽の湯に浸かる。

 久しぶりの入浴だ。

 体の芯から温まり、この世界に来てから初めてと言ってもいい、癒しの時間を過ごすことができた。


 新しい寝間着の袖に腕を通し、心地よく居間に戻った。

 

 その後、雛季がお袋さんと一緒に風呂に入った。美咲と入ることもあるらしいが、今日はお袋さんと入る日らしく、背中を流し合うのが習慣らしい。

 

 その風呂場の方から漏れ聞こえる二人の楽しそうな声を耳にしながら、リビングでしばらくくつろいだ後、俺と鮫川は寝る準備のため部屋に上がった。


 掛け時計によれば、まだ午後9時半を回ったところだ。

 今までの生活から考えると眠るにはいささか早い時間帯であったが、こちらでは10時台や11時台には眠りにつくのが一般的らしい。


「どうせ遅く起きていてもやることはあまりないから……」と、美咲は自嘲的な笑みを浮かべた。


「それじゃあ、おやすみ」

 美咲は囁き、俺たちの部屋のドアをゆっくり閉める。


「おやすみぃ、カケル君、鮫ちゃん! 眠れない時は言ってね? 雛季のくまちゃん貸すよ~」

 背伸びした雛季が、美咲の肩越しにこっちに向かって言った。くまちゃんとはぬいぐるみのことなのだろう……。

 

 愛想笑いを返し、部屋の奥に引っ込んだ。

 

 部屋の天井から、ランタンのような照明器具が一つだけ吊るされている。

 街中でもこの家の中でもすでによく目にしているおなじみの照明で、鉄の枠に取り付けられたガラスの中で、魔溜石と思しき物が暖色の淡い光を放っている。

 

 寝る前の一時ではとても落ち着けそうな明るさではあるのだが、向こうの世界の家の明るさに慣れてしまっている俺には、やや頼りない明るさだ。


 部屋の中央に用意してもらった布団が二組あり、男同士並んで寝るのは気持ち悪いと、俺も鮫川もできるだけ端に寄せて寝ることにした。


「棚から物が落ちねぇか心配だぜ……」

 鮫川は工事現場の足場のような棚を見上げながらぼやく。

 確かに元は物置になっていた部屋ということで、周囲にはたくさんの物が置かれているので、大きく寝返りをうつことはできそうにない。


 だが……。

「俺はお前のイビキの方が心配だぜ……。修学旅行で同室になった時はえらい目に遭ったからなぁ」


「ハンッ」と、鮫川は鼻を鳴らした。

「あの時はお前らが遅くまで馬鹿みたいに騒いだせいで、先公に叱られたな……。被害者は俺の方だ」


「あれは伊賀がだなぁ……あ!」

 伊賀のことはどうなったか、美咲に訊くのを忘れていた。

 自分のことで精一杯で、頭から伊賀の存在が離れてしまっていた。

 

 しまったという表情を鮫川に向けると、奴は横になりながら、「明日でいいんじゃねぇか?」と返してきた。


「何かいい情報を掴んでいたら、あの女のことだ、すぐに話しているだろう。しなかったってことは、どうせ大したことが得られなかったんじゃねぇか?」

 確かに、それは的を射た意見に思える。


「しかし、寝るには早すぎるな……。犬コロじゃあるまいし、そんなに寝れねぇぞ」

 矢継ぎ早に言ってから、鮫川は俺の手元を指した。

「そう言えば、何か本を借りていたな? それ、何の本だ?」

 

 実は部屋に戻る前、俺は美咲に本を数冊借りていて、手元にキープしていたのだ。

 見つかったならしょうがない。と言っても最初から隠すつもりはなかったが……それらの本を、二人の『緩衝地帯』に並べた。


「こっちでよく読まれている物語だとか、『オルタナティブワード』っていう辞書みたいな本だ。さっきの、魔溜石の組み合わせが書かれた『魔溜石本』ってやつも一応借りてきた」


「おお、それは見ておいても損はないな。特殊能力がないお前には関係ないだろ? 俺が読ませてもらうぞ」


「チッ……。まあいいよ。俺は『オルタナティブワード』でも目を通すよ。だけどこの部屋の灯りも魔溜石なんだろ? いつまでも点けていたら琴浦家の負担になると思うから、しばらくしたら消して寝るしかないぞ?」

 そう言って本を持ち、寝転がった。

  

 30分も経たぬうち、横から地鳴りのようなイビキが聞こえてきた。

 見れば、開いた本を顔に被った鮫川がすでに激しい眠りに落ちていた。犬コロじゃあるまいし、とか言っていたくせに……。

 こいつはこいつで疲労が溜まっていたのかもしれない。

 

 灯りが弱いし、俺もそろそろ寝てしまおう……。

 本を閉じ、消灯。

 イビキを止めるため、鮫川の口に雑巾でも詰め込もうかとも考えたが、結局ぺちゃんこの枕を丸めて自分の両耳を塞ぎ、寝ることにした。

 

 しかし、なかなか寝つけない。

 もちろん、チューニングがしっかり合っていないラジオのようにガーガーとうるさく鳴り続けるイビキが、どうしても枕越しに漏れ聞こえてきてうっとうしいということもあるが、そもそも自分の部屋と違う場所ではなかなか寝付けないという繊細な部分が俺にはあるのだ。

 

 そして、寝る前に思い出した伊賀のことが、またそこから派生して、元いた世界のこと……お袋や妹、クラスメイトたちのことが次々に頭の中に蘇り、本来ならすぐに眠れそうなほど疲れた体を、闇から引き上げてしまうのだった。

 

 おもむろに立ち上がり、手探りで再び灯りを点した。

 

 薄明りの中、視線を横に流すと、鮫川は先ほどの顔に本を被せた体勢とまったく変わらずにイビキをかいて寝ていた。

 意外にも一日平均50センチしか動きを見せないらしいゴキブリのようじゃないか。

 

 やはり今からまた本を読む気にもなれず、しばし布団の上で胡坐(あぐら)をかいていた俺は、あろうことかセンチメンタルな行動に出ていた。

 鮫川との『緩衝地帯』に乱雑に置かれた自分のジーパンのポケットを漁り、財布を取り出したのだ。

 元いた世界との細いつながりを手繰り寄せるように……。

 

 財布の中には鮫川に取られるはずであった三千円やポイントカードの数々、いくらかの硬貨があるだけだった。

 元いた世界を懐かしむには、あまりにも物が少なかった。

 

 しかし、財布と一緒にポケットから引きずり出た物には、長いこと目を奪われる。

 それは自宅の鍵だ。お袋手製の小さなお守りが付いている。


「……心配しているだろうな。(えみか)はどうしているだろう?」

 ぼそぼそと呟き、しばらくそのお守りをいじっていた。

 頬には熱いものが伝って寝間着の襟元に零れ落ちた。

 

 とてもすぐには眠れそうにない。

 俺は立ち上がってそっとドアを開け部屋を出た。

 尿意を催してきたからだ。


 廊下に出ると、ひんやりとした空気に身震いした。

 この季節の日本ほどではないが、夜が深まるにつれ徐々に気温も落ちていて、冷気が身に沁みる。

 

 腕を組み、肩をすぼめながら壁伝いに階段を下りて行く。

 やはり魔溜石を使った常夜灯が階段の途中に点されていて、足元を照らしてくれる。


 一階も真っ暗ではなく、ダイニングの方の灯りが点きっぱなしになっていた。

 それでも、薄暗く静かな、まだよく把握できていない場所を一人で進んで行くのは、深夜のホテルの廊下に出たような心寂しい気分がする。

 

 早く用を済ませ部屋に戻ろう。そう思って、トイレへとつながる脱衣所の戸を開けた。

 次の瞬間……。


「キャアァァッ」という女性の悲鳴が中から聞こえた。


「うへ?」と俺は思わず変な声を出し、俯き加減の視線を咄嗟に上げると、目の前に美咲が立っていた。

 

 脱衣所の薄明かりに照らし出された彼女は、どうやら全裸という状態だった。

 両腕をクロスさせて胸元を隠し、片脚を横に向けて上げ、白い太ももで必死に大事な部分を隠している。

 おそらく、今まさに穿くところだったのだろう、胸元の手にはショーツが握られている。

 

 出るところが出て、くびれているところはしっかりくびれている。

 淡い灯りによって生まれた陰影が、その美しい体のラインをより艶めかしく浮き上がらせていた。

 肩や脚にわずかに付いた水滴が光っている。

 玉の肌に張り付いた、濡れた長い髪も色っぽい。

 

 突然視界に入った彼女のその眩しい姿に、俺は立ち尽くし、時の流れを忘れ凝視していた。

 

 彼女は桜色に染まった顔をさらに赤らめ、寝静まっている二階の者たちを意識してか、やや抑え気味の声を出した。

「カ、カケル君! いつまでそこに立っているの? 早く出てって……!」


「あっ……ああ、ゴメン!」

 彼女の叱責(しっせき)でようやく我に返った俺は、慌てて踵を返し、後ろ手で扉を閉めた。

 

 扉の向こう側から忙しない衣擦(きぬず)れの音と、美咲の文句が聞こえる。

 俺は扉に背をつけて立ち、調子外れの声で弁明をした。 

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