プロローグ:雲上の残香
初めまして。3000年生きる男と、2900年生きる助手の女の子が旅をする物語を始めます。ゆっくりとした空の旅を楽しんでいってください。
高度三千メートル。
そこは、鳥の羽ばたきすら届かない
静寂が支配する青の世界だった。
飛空艇『蒼の翼』のメインブリッジに、陶器が微かに触れ合う上品な音が響く。助手のアオは、使い込まれた手動のミルをゆっくりと回していた。
ガリ、ガリ、豆を挽く規則的な音が
静かな艦内に朝の訪れを告げる。
「主様。今日の豆は、先日地上の東方諸国で見つけたものです。少し酸味が強いですが
寝起きの頭には丁度いいかと」
アオがドリップを開始すると、ブリッジ全体に香ばしく、深いコーヒーの香りが立ち込めた。
二十代の若々しくも気品ある横顔を
見ていると、彼女が二千九百年という時を生き
主の隣を歩み続けてきたという事実を
忘れてしまいそうになる。
艦長席に深く腰掛けた主は、窓の外を流れる雲海を眺めながら、ゆっくりと頷いた。
三千歳の時を刻んだその貌には、
五十五歳ほどの人間が持つ、酸いも甘いも噛み分けた男の渋みが宿っている。
「……ああ。お前の淹れるコーヒーは、いつも俺の時間を少しだけ止めてくれる」
そこへ、背後の扉が静かに開き、一人の艇員が姿を現した。整った身なりで、仕事に対して一切の無駄を感じさせない、クールの表情をした若者だ。
彼は主の座る椅子から数歩離れた位置で
深々と一礼する。そして呟いた。
「失礼いたします。ノイマン様、地上から取り寄せた例の荷物が届いております。……
これらは、どこへ運び込みましょうか?」
ノイマンと呼ばれた主は、カップを
口に運ぶ手を止めることなく
落ち着いた声で応えた。
「ああ、それか。……後で私が確認する。とりあえず予備の資材庫へ置いておいてくれ」
「承知いたしました、ノイマン様。……アオ様、コーヒーの香りがこちらまで届いております。
失礼いたします」
艇員はそれだけを告げると、
足音も立てずに去っていった。
アオはそれを見送って
から、少しだけ誇らしげに微笑み
主へと向き直る。
「……ふふ。ノイマン様、だなんて。あの子たちも随分と、この船の流儀に馴染んできましたね。ですが主様。私だけは、これからもずっと、あなたを主様とお呼びしますよ」
「……全くだな。お前にそう呼ばれないと、どうにも調子が狂う。さて、アオ」
ノイマンはカップを置くと、不意に視線を地上の深い霧へと向けた。その五十五歳の渋い瞳が、慈しむように細められる。
「……コーヒーを楽しめる時間は、どうやらここまでだ。あそこの崖の淵……また、行き場をなくした魂が震えている」
「……見つけました、主様。迎えに行ってあげましょう。私たちの船には、まだ空き部屋があります」
アオの細い指が操舵輪にかかる。
飛空艇『蒼の翼』は、主の言葉に従い
静かに、しかし力強く、地上の絶望を
拾い上げるためにその舳先を向けた。
プロローグ、いかがでしたか? ノイマンとアオのコーヒーのシーンがお気に入りです。
次は地上での救出劇が始まります!




