閑話 黄金の瞳の守護者 ――「ニャン類憐れみの令」と鼠疫追放
大ブリテン連邦の覇権が揺るぎないものとなった頃、エース・ランカスターは新たな「敵」を捕捉していた。それは国境を越え、貧富の差を問わず襲いかかる死神――ペストである。
当時のヨーロッパでは、無知な教会が猫を「魔女の使い」として忌み嫌い、組織的な殺処分を行っていた。その結果、捕食者を失ったネズミが爆発的に増殖し、死を運ぶノミを媒介して、村々を全滅させる黒死病の恐怖を撒き散らしていたのである。
(神に祈ってもウイルスは死なないし、猫を殺しても救いは来ない。……論理的に行こう。生態系のバランスを取り戻すんだ)
エースが発令した「ニャン類憐れみの令」は、当初、国民を困惑させた。猫を家族として迎え入れることを奨励し、虐待を厳禁する。さらに、ノミの繁殖を防ぐために「猫を定期的に洗うこと」までもが法制化されたのである。
エースは自ら、石鹸の成分を調整した「猫専用シャンプー」を生産魔法で開発。王宮の広場で、嫌がる子猫を器用に洗うエースの姿は、冷徹な統治者としてのイメージを大いに(そして微笑ましく)覆した。
結果は劇的だった。猫たちが街に戻ると、ネズミの数は激減。同時に、徹底した上下水道の整備とゴミ捨て場の区画整理を断行したことで、不衛生な都市環境は一変した。
「祈りの前に、まずその手についた目に見えない『穢れ』を石鹸で落とせ。それが真の信仰だ」
エースはそう言って、宗教的な文脈を利用しながら「手洗い」を習慣化させた。数世紀後の現代社会でも基本となる衛生概念が、魔導物理学者の手によって、この中世的な世界に急速に根付いていったのである。
衛生革命はペストだけに留まらなかった。エースは次々と、当時の医学では「呪い」や「祟り」とされていた病を、科学のメスで解体していった。
インフルエンザの流行に対しては、ワットに命じて開発させた高純度蒸留装置で、ウイスキーをさらに精製した「消毒用アルコール」を量産。公共施設や家庭での消毒を徹底させた。
街には、あの不気味な鳥の嘴のような形をした「ペストマスク」を被る医師たちが現れた。 「あのマスク、機能的にはあまり意味がないけれど……威圧感があって面白いから放置しておこう。心理的なソーシャルディスタンスには役立つしね」 エースは皮肉っぽく笑いながら、マスクの内側に薬剤を含ませたフィルターをこっそり追加し、実用性を持たせた。
最も困難だったのは、天然痘の根絶である。
エースは「牛痘」によるワクチンの有効性を知っていたが、当時は「牛の病気を人間に打つ」という概念は受け入れがたいものだった。そこで彼は、教会の権威を利用した。
「これは聖遺物から抽出した『神の加護』の雫である」
そう称して、礼拝に集まった人々へ組織的に種痘を施したのである。後世の歴史家が知れば驚愕するような「嘘も方便」の医療工作であったが、これによって国内の天然痘被害は皆無となった。
結核に対しては、産業革命で得た富を惜しみなく投入。国民の栄養状態を向上させ、免疫力を底上げした。さらに「咳をする者は布で口を覆うこと(マスク)」を義務付け、飛沫感染の連鎖を断ち切った。
娼館の管理による性病の抑制、上下水道の完備によるコレラの防止。エースがもたらした「清潔」という名の魔法は、どの攻撃魔法よりも多くの命を救った。
「エース様、街の空気から澱みが消えましたね」
アンナが、陽光の下で毛繕いをする猫を見つめながら言った。
「健康な国民こそが、最強の資源だよ、アンナ。……死体袋を数える仕事より、猫の数を数える仕事の方が、僕の計算機も喜んでいるようだ」
魔法学園の書庫でアンチ・マジックを学んでいた少年は、今や一国の「命の理」そのものを書き換え、万民が健康に暮らせる前代未聞の帝国を築き上げていた。
「ニャン類憐れみの令」によって幸せそうに喉を鳴らす猫たちの声が、エース・ランカスターの、最も優しい統治の証としてイングランドに響き渡っていた。
(俺はどっちかというと、イヌ派なんだけどなー)




