鉄の条約 ――自由貿易と不可侵の天秤
フランソワ1世の動揺を、クロムウェルは見逃さなかった。彼は一歩前に出ると、エースから授かった「最善の解答」を、迷いのない口調で切り出した。
「単刀直入に申し上げましょう、フランソワ陛下。我々が求めるのは、フランスの領土でも、王座でもありません。我々が求めるのは、両国の『共栄』です」
「共栄だと? 我が国の産業をイングランドの機械で押し潰すことがか?」
「いいえ。相互の障壁を取り払うのです。具体的には、無関税の自由貿易通商条約、および相互不可侵の友好条約の締結です」
自由貿易――それは、16世紀の王にとっては未知の概念だった。関税は王室の重要な収入源であり、それを放棄することは主権の一部を差し出すことに等しい。だが、クロムウェルはエースが作成した詳細な「経済予測図」をテーブルに広げた。
「関税を失う代わりに、陛下はイングランドの最新技術――蒸気機関のライセンス、および農作物の生産倍増ノウハウを手にすることになります。フランスの小麦がイングランドの工場労働者を養い、イングランドの鋼鉄がフランスのインフラを整える。これは略奪ではなく、最適化なのです」
フランソワ1世は、震える手で羊皮紙を見つめた。隣に立つエリザベスは、余裕に満ちた微笑みを浮かべている。 (……背後にいるあの青年が、私の命をいつでも奪える距離にいる。そして、この条約を断れば、ドーバー海峡の艦隊が数日のうちにル・アーヴルを焦土に変えるだろう)
戦争のコストは、国家の破綻。
自由貿易のコストは、王室のプライド。
計算はあまりに簡単だった。エース・ランカスターという計算機が導き出した答えは、フランソワ1世に「従う」という選択肢以外を残していなかった。
「……わかった。その交渉を進めよう。軍事演習の砲声が、我が国の農民を怖がらせる前にな」
フランソワ1世が折れた瞬間、室内の緊張がふっと緩和された。気配を消していたエースは、満足げに魔法を解き、影の中からエリザベスの背後へと移動した。
エリザベスは満足げに頷き、フランス王に手を差し出した。
「賢明なご判断ですわ、殿下。これでフランスも、イングランドと共に『新しい世界』の住人となれるのですから」
この日、ドーバー海峡を挟む二大強国は、歴史上初めて「武力による征服」ではなく「経済による統合」へと舵を切った。イングランドは、フランスを敵として滅ぼすのではなく、巨大な「消費市場」かつ「資源供給地」として、自らの経済圏へと取り込むことに成功したのだ。
交渉を終え、宮廷の回廊を歩くエースに、アンナが小声で尋ねた。 「エース様、フランス王は本当に納得したのでしょうか?」
「納得ではないよ、アンナ。彼はただ『降伏』したんだ。論理という名の、見えない暴力にね。……さあ、次は無敵艦隊を有するスペインだ。世界の貿易を席巻している威を、僕たちの自由貿易と科学で、根底から腐らせてあげよう」
エース・ランカスターの覇道は、もはや一つの島国に留まらず、ヨーロッパ大陸という巨大な盤面を、鮮やかな青写真に沿って塗り替え始めていた。産業革命の火は、今や海を越え、旧世界の理を焼き尽くすための猛火へと変わりつつあった。




