第12話「黒月の逆襲――令嬢、盾となる決断」
鏡が砕けた夜から、王都には確かな変化が訪れていた。空気は少し軽くなり、噂の渦は音を立てて消えかけた。だが静けさの裏側では、確実に別の嵐が渦巻いている。黒月の会は“鏡”を失ったことにより形を変え、より露骨で、より危険な手段に訴え始めていたのだ。
翌朝、王城の広間には緊迫した空気が漂っていた。王太子アレクシスが配した密使たちからの報告は、どれも顔色の悪いものばかりだ。港の残党が諦めずに流浪集団を編成していること、隣国の一部勢力が黒月に金と兵を流していること、さらには黒月が情報網の別ルートを通じて都市の治安を揺るがす計画を立てている可能性――。
「奴らは、鏡を失ったことで焦っています」アレクシスは窓際に立ち、遠くの街並みを見据えた。「次は力で押してくるだろう。だが我らも準備はできている。セレスティア、君の判断は――」
セレスティアは椅子から立ち上がり、窓の外の陽光を一瞬だけ目に入れた。昨夜、彼女は自ら鏡を叩き砕き、象徴を断ち切った。同時に、彼女は多くの人の期待と懸念を背負うことになった。断罪はまだ来ない。その代わりに、彼女には「守るべきもの」が増えていた。
「私は――このまま黙って後ろに下がる気はありませんわ」セレスティアは静かだが確かな口調で言った。「黒月が力づくで動くなら、私もそれに応じて動く。ただし、今回は“舞台”ではなく、本物の盾になるつもりです」
アレクシスは深く頷いた。「君の他に頼れる者はいない。君が動くなら、我々は支える。だが気をつけてくれ。黒月は、単なる雇われ商人や海賊ではない。彼らは利害と情報で国を操る者たちだ」
短い時間で決めるべきことが山積していた。王太子は軍を増強し、港湾の守りを固め、黒帆の残党を包囲する。同時に、セレスティアは二手に分かれた作戦を提案する。ひとつは公的な正面――治安維持と民心の安定策。もうひとつは、隠密行動による黒月本部の直接的な探りと破壊工作だ。後者は危険だが、黒月の核を叩ければ長期的な被害を防げる。
「私が潜入します」セレスティアは即断した。リスクは高い。だが彼女は考えるヒマを与えれば与えるほど、誰かに止められたり利用されたりする予感が強まることを知っていた。自分が“駒”にされるくらいなら、自ら錘を握る方がましだ。
侍女ルシア、王太子の信頼厚き参謀サミュエル、そして少数の王宮親衛隊だけが、セレスティアの潜入計画に帯同することを許された。リュシアンの動向は不確かだが、彼を直接追うのは別の術である。今回の狙いは“黒月が拠点として利用している港湾の廃倉群”──夜陰に紛れて物資の移動を仕切る中継点である。
夜が深まる前、準備は整った。変装に身を包んだセレスティアは、普段の煌びやかな姿とは打って変わって質素な衣に身を隠す。だがその眼差しはいつもよりも鋭く、沈着していた。ルシアは震える手で短剣を握りしめ、サミュエルは冷静に地図を確認する。親衛隊士たちの背には“王の印”が光り、彼らは静かに出発した。
港の廃倉群は、夜の潮風に濡れて鈍い光を放っていた。漆黒の海面に船影が揺れ、木箱や縄が無造作に積まれている。セレスティアたちは慎重に進入し、物資の動きを探る。倉庫の奥には小さな火が灯り、人影が働いていた。だがその数は想定よりも多い。どうやら黒月は“戦力”を意図的に増強していたのだ。
静かに忍び寄った一行は、計画どおりに幾つかの証拠書類と、隠し箱を押さえた。しかし、そこでアクシデントが起こる。倉庫の見張りが予期せぬ方向へ進路を変え、警鐘を鳴らしたのだ。闇の中で叫び声が上がり、木箱を覆っていた帆布がばさりと剥がされる。包囲される。包囲網が収縮する音が、セレスティアの耳に届いた。
「出るぞ!」サミュエルの低い声。親衛隊が即座に反撃を開始する。石や棒が飛び、短い交戦が始まる。ルシアは献身的にセレスティアを守り、短剣を振るって仲間の盾となる。だが黒月側の人数は多く、戦況は一進一退だ。
その最中、驚くべきことが起きた。倉庫の入口に、一人の男が立って現れた。黒いコートを翻し、顔は影に隠れているが、動きは流麗であった。やがて彼はゆっくりと帽子を取って頭を下げると、皮肉な笑みを浮かべた。
「予想外の来訪者ですな、セレスティア嬢」その声は低く、どこか懐かしい。――リュシアンだった。
セレスティアは剣を引き、冷たい視線を向ける。「あなたはここで何をしている? 私を利用したかっただけでしょ?」
リュシアンは肩をすくめる。「利用? ふふ、世の中は利用合戦だよ。だが今夜は少し違う。黒月の連中は私の“友人”を脅している。彼らは自分たちの命令系統の先を知らない。ただ、上からの命で動いているだけだ」
その言葉に、一瞬戦意が揺らいだ。しかし通信が途絶えた瞬間、倉庫の奥から鋭い号令が響く。大勢の武装が集まり、数の暴虐が押し寄せてくる。戦況は悪化し、撤退の合図が出される。セレスティアは短い間に判断を下した。
「撤退は許さない。ここで握った証拠を持ち帰る!」彼女は叫ぶ。サミュエルが息を呑み、親衛隊は彼女の命令に従う。だが退路を曳くように、黒月の多数が押し寄せる。彼らは冷酷だ。武器を振るい、容赦しない。
その瞬間、リュシアンが動いた。彼は闇へ消え、次に現れたのは瓦礫を飛び越えてきた小さな爆発の残滓で、倉庫の別の通路が塞がれる。黒月の一部隊が足止めされた。リュシアンは微かに笑い、叫んだ。「今だ、退け!」
混乱の中、セレスティアたちは必死に撤収を図る。ルシアは片足を負傷しつつも、セレスティアを抱えて走る。サミュエルは最後尾を固め、兵士たちと共に敵の追手を食い止める。波のように押し寄せる銃声や叫び声の中で、彼女はただひたすら前へ進んだ。
港の塀を越えたとき、後ろで大きな騒音が走り、倉庫が火を噴いた。黒月の補給線の一部が爆破されたのだ。煙が夜空を染め上げる。セレスティアは振り返り、そこに薄く浮かぶ人影を見た。リュシアンは影の彼方から帽子を取って一礼し、やがて姿を消す。彼の介入は、彼女たちを救うためのものだったのか、それとも計画の一部に過ぎないのか――答えはまだ見えない。
王都へ戻った一行を迎えたのは、王太子と兵の歓声だった。証拠は無事に回収され、黒月のネットワークはいくらか壊滅的打撃を受けた。だが代償も大きい。負傷者が出、民の間には不安が広がる。王太子は静かにセレスティアの傷を確認し、深々と礼をした。
「君は――また国を救ったんだね」アレクシスは言葉を選びながら続けた。「だが君は、いつか断罪を望んでいたはずだ。今、君が得ているものはそれとどう向き合っている?」
セレスティアは包帯に手を伸ばしながら、小さな笑みを浮かべた。「断罪は来るでしょう。でも、それは私のためだけのものじゃない。今はこの国を守ることが先よ。そして――」彼女は窓の外の夜空を見上げる。「リュシアン、お前の本心をいつか暴いてやる。だが今は、感謝している。ふふ、彼の出方も“舞台”の一幕かもしれない」
アレクシスはその言葉に微笑み、手を取った。「君がそう言うなら、私も共に舞台に立とう」
だが城の影で、黒月の残党は静かに息を潜め、誰かが指令を送っていた。その腕はまだ切り落とされていない。黒月の“大いなる目”はまだ眠ってはいないのだ。
セレスティアは包帯を握りしめ、窓を見つめる。決意がさらに深くなっていた。断罪を望んだ“悪役志望”の令嬢は、いつしか国の盾となり、そして自分の手で物語の結末を打ち砕こうとしていた。




