第10話「偽りの和平と、微笑む悪役令嬢」
港の夜明けは薄青く、風が冷たい。
黒帆商会の本拠が押収された翌朝、王都の空気は一変していた。商人たちは取引を止め、貴族たちは沈黙し、民たちは広場で噂を交わす。「黒帆が潰れた」と。「背後に隣国の手がある」と。「だが、あの悪役令嬢が全部暴いたらしい」と。
セレスティア・ハイラントの名は、皮肉にも再び人々の口に上る。
だが彼女が望んだ“断罪”ではなく、“救世”の象徴として。
「……断罪されたいのに、また救っちゃったわね」
セレスティアは執務室の椅子にもたれ、額を押さえた。机の上には報告書の山。港から上がった密輸記録、捕らえられた商人の供述、そして……隣国リオスタ公国の印章が押された秘密文書。黒帆商会はただの商団ではなかった。国家規模の“攪乱組織”だったのだ。
「お嬢様、どうなさいますか? これを公開すれば、戦になるかもしれません」
ルシアが不安そうに言う。
「戦は避けたい。……でも、黙っていればまた同じことが起こる」
セレスティアは静かに目を閉じる。
彼女の“悪役計画”は、いつのまにか外交戦略の真っ只中に立っていた。
その時、扉がノックされた。王太子アレクシスが姿を見せ、凛とした声で言った。
「セレスティア、君に頼みたい。黒帆商会の残党と隣国の特使が、和平の席を求めてきた。表向きは“貿易再開のため”だが、裏では情報の握り潰しを狙っている。――そこで、君にその席へ出てほしい」
「……わたくしが?」
セレスティアの瞳がわずかに揺れた。和平の席に呼ばれるなど、本来なら外交官や王族の役割だ。だが、黒帆商会を暴いた本人としての“象徴”として彼女が求められたのだ。
「向こうは、君を恐れている」
アレクシスは微笑した。「君が一言でも間違えば、彼らの均衡は崩れる。だからこそ、君にこそ任せたい」
セレスティアは苦笑する。「悪役令嬢に和平交渉を任せるなんて、あなたも物好きですわね」
「物好きでなければ、君のような人を愛したりしない」
一瞬、空気が止まった。
セレスティアは目を瞬き、顔を逸らした。心臓が妙にうるさい。
――この人、本気なのだ。
だが今は、胸の高鳴りよりも先にやるべきことがある。彼女は深呼吸し、姿勢を正した。
「分かりました。和平の場……悪役らしく、少し“裏”を暴いて差し上げましょう」
和平会談の場は、王城の「白の間」。
銀の燭台が光を放ち、長いテーブルの両端には王国とリオスタ公国の代表が座っている。
中央には、黒帆商会の残党を代表する男――マリウス・ヴェルガがいた。灰色の髪に、常に笑みを浮かべた切れ者だ。
「これはこれは、ハイラント公爵令嬢。貴女がこの度の“英雄”ですか」
「……悪役令嬢ですわ」セレスティアはにこりと微笑む。
その一言に、場の空気がぴりっと張り詰めた。
マリウスは肩をすくめた。「我々は誤解を受けております。ただ商いの延長が、政治に誤って絡んでしまっただけ。隣国の陛下も、あくまで和平を望んでおられる」
「そうですの? では、この書簡は何かしら?」
セレスティアは懐から一枚の封書を取り出す。黒帆商会の帳簿に隠されていた暗号文だ。
それを差し出すと、マリウスの笑みが一瞬だけ止まった。
「“補給線を押さえ、王国を冬に封じる”――これが、商人の取引文?」
セレスティアの声は穏やかだが、鋭い。
場の空気が静まり返る。
マリウスは唇を歪めた。「……それは、旧体制の者が勝手に動いたものです。私とは関係が――」
「まぁ。そう仰ると思って、もう一枚ございますの」
セレスティアが微笑みながら次の紙を掲げる。
そこには“マリウス・ヴェルガ”の署名と、宰相ヴェルネールへの賄賂記録が並んでいた。
もはや逃げ道はない。
「貴方が和平を望むのなら、まず真実を差し出しなさい。
偽りの友好ほど醜いものはありませんわ」
セレスティアの言葉に、隣国特使が立ち上がりかけたが、王太子アレクシスが静かに手を上げ、制した。
「この証拠が真であるなら、我が国は正式に抗議を申し入れる。だがそれと同時に、互いの未来のための再交渉の場も設ける。――ハイラント嬢、貴女の“悪”が、我々の道を開いた」
マリウスは歯を食いしばり、深く息を吐いた。
「……参りました。和平を受け入れましょう。ただし、条件が一つ」
「聞きましょう」セレスティアは冷静に答える。
マリウスはゆっくりと微笑み、囁くように言った。
「貴女の身の安全を、保証させていただきたい。我々には“彼”からの命令がありました。“ハイラント嬢を傷つけるな”と」
「彼……?」
セレスティアは眉を寄せた。その瞬間、頭の奥でリュシアンの笑い声が蘇る。
――「真の鏡はまだ割れていない」
あの言葉の意味が、今になって重く響いた。
マリウスは続ける。「“黒月の会”の指示です。貴女は彼らの“中心”として観察対象だった。我々は貴女の行動を利用しようとしていたのです」
「黒月の会……」
セレスティアは小さく息を呑む。
――リュシアンが属していた謎の組織。その名が、ついに現実の交渉の場に出た。
会談は一時中断となり、王太子は急ぎ側近たちに命を下す。
セレスティアは一人、静まり返った会場に立ち尽くしていた。
月光が差し込み、テーブルに映る自分の姿が揺れる。
“観察対象”。
“中心”。
彼女はただ、悪役を演じていただけのはずだった。
なのに、いつのまにか――誰かの計画の核になっていた。
「……リュシアン。あなたの目的は何?」
声に出した瞬間、背後で窓の外の風が揺れた。
薄闇の中、誰かの気配が一瞬だけ通り過ぎる。
それは、笑っているようにも、見守っているようにも感じられた。
数時間後。
和平は一応の合意を見た。
だが、その裏でセレスティアは密かに動いていた。
リュシアンが残した印章と、黒帆商会の暗号書簡の一致点を解析し、ひとつの結論にたどり着いたのだ。
――黒月の会は、王国と隣国の両方に手を伸ばす“第三勢力”。
国家の安定と混乱、その両方を“舞台”として楽しむ存在。
セレスティアは深夜の書庫で書簡を封じ、王太子へ手渡した。
「殿下。次の断罪の舞台は、もっと大きくなりますわ」
「覚悟はできている」
アレクシスは彼女の手を取る。その掌は温かい。
「君がいる限り、この国は負けない」
セレスティアは少し微笑み、首を傾げた。
「ふふ……そう言われると、悪役としては複雑ですわね」
「君ほど美しい悪役はいない」
アレクシスの冗談めいた言葉に、彼女はほんの少し頬を染めた。
だがその夜。
リュシアンの声が、夢の中で響いた。
「断罪の舞台は終わっていないよ、セレスティア。
本当の“悪役令嬢”は、まだ――君自身だ。」
セレスティアは目を開ける。
窓の外で月が欠け、黒く染まり始めていた。
「……そう。なら、私が見せてあげるわ。
“悪役令嬢”が本気を出した時、世界がどう変わるのかを」
夜風が吹き抜ける。
その瞳に、確かな決意の光が宿っていた。




