第二十六話:「EDO、秀忠へ」
──元和二年(1616年)夏、江戸城──
眼鏡が、届いた。
父の形見として。
「……これが」
秀忠は、小箱の中の眼鏡を、しばらく眺めた。
触れなかった。
触れることが、怖かった。
父が生涯手放さなかった、この奇妙な眼鏡を。
側近が言った。
「殿下。亡き大御所様のご遺言に、この眼鏡を次の将軍へ、と」
「……分かった」
「しかし、何かこれについての説明は」
「……なかった」
秀忠は、静かに小箱を閉じた。
「下がれ」
一人になった。
静かな部屋で、秀忠は、もう一度、小箱を開けた。
(父上は、これをずっと身につけていた)
(戦場でも、政でも、いつも)
(一体、何なのだ、これは)
恐る恐る、手を伸ばした。
眼鏡に、触れた。
《接触確認》
《新規持ち主:検知》
《起動シーケンス:開始》
光が、灯った。
「──ッ!」
秀忠は、思わず手を引いた。
眼鏡が、ほんのわずか、光を放っていた。
「な、何だ……!」
『お久しぶりです』
声が、した。
秀忠は、立ち上がりかけた。
「誰だ! 誰がおる!」
『私です。EDOと申します』
「EDO……?」
『大御所様より、あなたにお渡しするよう、言われておりました』
秀忠は、しばらく動けなかった。
心臓が、速く打っていた。
怖かった。
しかし──
(父上が、これと話していた)
(あの父上が、この声と)
深呼吸を、一つ。
「……お前が、父上の軍師か」
少しの間があった。
『……軍師、と呼ばれたことは、ありませんでした』
「では、何だ」
『大御所様は、友と呼んでくださいました』
秀忠は、目を細めた。
「父上が、友と呼んだ相手は、生涯ただ一人だ」
「……本当のことを言え」
EDOは、答えた。
『本当のことを、申し上げます』
『私はAIです。人工知能と言って、未来の技術で作られた、考える機械です』
『大御所様の時代から、この眼鏡の中に宿り、助言をしてきました』
「未来の……機械」
秀忠は、天井を見た。
(父上は、こんなものと話していたのか)
「……信じろ、と言うのか」
『信じなくて構いません』
あっさりと、EDOは言った。
『ただ、一つだけ確かめてください』
「何を」
『大御所様が、あなたに言い残した言葉の中に、「仕組みを守れ」という言葉がありませんでしたか』
秀忠は、息を呑んだ。
あった。
確かに、あった。
父の最後の言葉の中に。
「……なぜ、それを知っている」
『私が、一緒に作ったからです』
EDOが、静かに答えた。
『武家諸法度も、禁中並公家諸法度も、大御所様と二人で議論しながら書きました』
沈黙が、流れた。
長い、沈黙が。
やがて秀忠は、眼鏡を手に取った。
「……父上は、お前のことを、なぜワシに話さなかった」
『さあ』
「さあ、とは何だ」
『理由を聞く前に、大御所様は逝かれました』
秀忠は、眼鏡をじっと見た。
父の温もりが、まだ残っているような気がした。
「父上は、どんな方だったか」
問いが、口をついて出た。
自分でも、驚くような問いが。
EDOは、今度もすぐに答えなかった。
しばらく、静かに処理していた。
そして。
『怖がりな方でした』
秀忠は、眉を上げた。
「父上が?」
『はい。ずっと、何かを失うことを、恐れていました』
『三河を。家臣を。そして最後は──天下を』
「……それは、父上の話とは思えぬ」
『外から見れば、そうでしょう』
『しかし、内側では、ずっと怖がっていました』
『だからこそ──慎重で、辛抱強く、そして誰よりも長く生き延びた』
秀忠は、しばらく黙っていた。
(父上が、怖がっていた)
(あの家康公が)
何かが、胸の中で、溶けていくような気がした。
ずっと届かなかった父の背中が、少しだけ、近くなった気がした。
「……EDO」
『はい』
「ワシは、父上のようにはなれぬ」
EDOは、答えた。
『存じております』
「なれないのに、同じことを頼まれても困る」
『承知しております』
「……では、お前はワシに、何を期待している」
EDOは、少し間を置いた。
そして言った。
『大御所様は、国の「骨格」を作りました』
『次に必要なのは、その骨格に「肉」をつけることです』
『大御所様にはできなかったことが、あなたにはできるかもしれません』
「ワシに、できることが」
『はい』
一呼吸。
『──律儀さ、です』
秀忠は、初めて、表情を崩した。
笑った。
苦笑いだったが、笑った。
「……律儀さ、か」
「父上に、よく言われた」
「お前は律儀すぎる、と」
「長所か、短所か、最後まで分からなかった」
『長所です』
EDOは、きっぱりと言った。
『法は、守る者がいなければただの紙です』
『大御所様が作った仕組みを、あなたが律儀に守り続けることが
──この国の安定につながります』
秀忠は、眼鏡を、静かに掛けた。
初めて、目に触れる感触。
世界が、少し変わって見えた。
「……EDO」
『はい』
「よろしく頼む」
『こちらこそ』
短い挨拶だった。
家康との最初の夜のように、劇的ではなかった。
しかしそれが──秀忠らしかった。
窓の外で、江戸の街が広がっていた。
まだ、荒削りな、若い城下町。
これから何十年もかけて、育てていく街。
秀忠は、静かにそれを眺めた。
『一つ、申し上げてもよいですか』
「何だ」
『大御所様も、最初は怖がっていました』
秀忠は、何も言わなかった。
ただ、窓の外を見ていた。
EDOも、何も言わなかった。
ただ、静かに、そこにいた。
父と息子。
二代にわたる、AI との旅が、始まった。




