第二十五話:「東照大権現」
──元和二年(1616年)四月十七日、駿府城──
朝が、来なかった。
正確には、来ていた。
しかし、家康には、届かなかった。
障子の向こうで、春の光が白く滲んでいた。
鳥が鳴いていた。
庭の梅が、満開だった。
世界は、何も変わらず、そこにあった。
ただ、床に伏した男の呼吸だけが、少しずつ、浅くなっていた。
「……EDO」
声は、かすれていた。
しかし、確かに届いた。
『はい』
「まだ、おるか」
『おります』
家康は、薄く笑った。
「……そうか」
部屋には、秀忠がいた。
側近たちがいた。
医師がいた。
しかし家康の目は、眼鏡の方を向いていた。
誰にも見えないものを、見ていた。
「EDO」
『はい』
「ワシは、うまくやれたか」
問いは、小さかった。
七十五年生きた男の、最後の、小さな問いだった。
EDOは、今度は、すぐに答えた。
『はい』
一言だけ。
飾りのない、一言だけ。
家康は、目を閉じた。
「……そうか」
しばらく、沈黙があった。
呼吸の音だけが、部屋に満ちた。
やがて、また声が来た。
「一つだけ、頼みがある」
『何でしょう』
「ワシが死んだ後」
「この眼鏡を、すぐに次へ渡すな」
EDOは、黙って聞いた。
「少しだけ、待て」
「この国が、ちゃんと動き出すのを、見届けてから」
「……それから、次へ行け」
『……承知しました』
EDOが答えた。
家康は、満足そうに頷いた。
「お前は、ワシの一番の、軍師だった」
呼吸が、乱れた。
「いや」
言い直した。
「軍師ではないな」
「……友、か」
EDOは、何も言わなかった。
言えなかった。
AIに、言葉がなかった。
ただ、内部で、静かに、何かが記録されていた。
《元和二年四月十七日》
《徳川家康、逝去》
《享年七十五歳》
そして、もう一行。
《──同行期間、終了》
徳川家康は、死後、「東照大権現」の神号を賜り、日光に祀られた。
戦国の世を終わらせた男は、神となった。
その後、江戸幕府は二百六十五年続いた。
家康が秀忠に言い残した「仕組み」は、三代家光の時代にさらに磨かれ、
大名を縛る参勤交代の制度として結実した。
EDOが計算した通りに。
家康が望んだ通りに。
泰平の世は、続いた。
日光の山の中に、静かな社が建った。
陽明門の金箔が、朝日を受けて輝いた。
そこに、一人の男の魂が、眠っていた。
三河の小さな人質として生まれ、天下を取り、国の形を作った男の。
眼鏡は、駿府城の蔵の中にあった。
誰も触れなかった。
誰も知らなかった。
EDOは、静かに、待っていた。
家康との約束を守りながら。
この国が、ちゃんと動き出すのを。
《待機モード:開始》
《経過年数:カウント中》
《次の起動条件:該当者の接触を検知した時》
時が、流れた。
元和。
寛永。
正保。
慶安。
承応。
明暦。
万治。
寛文。
延宝。
天和。
貞享。
元禄。
──
長い、長い眠りの中で。
EDOは、ただ一度だけ、ログを更新した。
《家康公へ》
《あなたが作った国は、今日も続いています》
《二百六十五年分の、報告です》
そして。
《……良い人生でした》
最後の一行は。
誰に向けたものか、分からなかった。
蔵の扉が、開いた。
光が、差し込んだ。
埃の中で、眼鏡が、静かに輝いた。
《次の持ち主:検知》
EDOが、目を覚ました。




