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【第一部「漂流」】第九話:「黒船の予感」

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紙切れ一枚が、世界を変えようとしていた。

────────────────────

仁三郎が、茶館の机に紙を置いた。

オランダ語だった。

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澪は、読んだ。

一度。

もう一度。

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「……ペリー提督」

「知っているか」

「アメリカ海軍の将校です」

「そいつが、日本へ向かっている」

────────────────────

澪は、紙を置いた。

「いつですか」

「来年か、再来年か」

「目的は」

「開国だ」

────────────────────

《澪》

SIAMが、静かに言った。

《急いでください》

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── 語り ──

二年が、さらに過ぎていた。

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七歳で売られた澪は。

今、十四になっていた。

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背が伸びた。

顔つきが変わった。

言葉が増えた。

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タイ語は、流暢になった。

中国語は、商談ができるようになった。

英語は、難しい交渉にも使えるようになった。

オランダ語は、最初から得意だった。

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七年。

シャムで、七年を生きた。

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── 語り ──

その七年で。

澪は、世界を学んだ。

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イギリスがインドを支配した方法。

オランダが東南アジアを飲み込んだ経緯。

清がアヘン戦争で膝を屈した理由。

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全部、SIAMが教えてくれた。

全部、仁三郎が補足してくれた。

全部、陳翁が確認してくれた。

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そして今。

アメリカが、日本へ向かっていた。

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「SIAM。ペリーが日本に来たら、どうなる」

《最初は、交渉です》

《でも、断れば》

《砲艦を向けます》

「撃つの?」

《脅しです。最初は》

《でも》

《日本の幕府が、どれだけ耐えられるか》

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澪は、黙った。

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《EDOが言っていました》

「EDO?」

《私の、兄弟のようなAIです》

《江戸にいます》

「兄弟?」

《同じ人物に、作られました》

《藤宮博士に》

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澪は、目を上げた。

「EDOとは、話せるの?」

《直接は、話せません》

《でも》

《記録の断片が》

《海を越えて、届くことがあります》

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《EDOが、言っています》

《「日本が、揺れている」と》

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仁三郎が、腕を組んだ。

「お前は、いつ帰るつもりだ」

「今すぐ帰りたいです」

「船の準備はできる」

「本当ですか」

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仁三郎が、立ち上がった。

「二週間くれ」

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── 語り ──

その夜。

澪は、眠れなかった。

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七年ぶりの日本。

知っている顔は、誰もいないかもしれない。

母が、生きているかもしれない。

売った父が、生きているかもしれない。

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(怖い)

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「SIAM」

《はい》

「帰るのが、怖い」

《なぜですか》

「日本の澪は、七歳で売られた子どもだから」

「でも今の私は、違う人みたいで」

「どっちが本当の澪なのか、わからなくなる気がして」

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SIAMが、少し間を置いた。

《澪》

《七歳で売られた子どもが》

《七年かけて》

《今の澪になりました》

《それは》

《どちらも、本当の澪です》

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「両方?」

《はい》

《海は、行きと帰りで》

《違う顔を見せます》

《でも》

《同じ海です》

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澪は、天井を見た。

「うまいこと言うね」

《ありがとうございます》

《SIAMなりに》

《考えました》

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澪が、笑った。

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「SIAM。日本に帰ったら、まず何をする」

《まず》

《勝海舟という人物を探してください》

「誰ですか」

《EDOが、傍にいる人物です》

《幕府の中で》

《日本の未来を、一番真剣に考えている人間です》

「幕府の人が、私を相手にしてくれる?」

《してくれます》

《なぜなら》

《あなたは、誰も持っていない武器を持っている》

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「何の武器」

《七年分の》

《世界の知識です》

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── 語り ──

翌朝。

陳翁が、茶館に二人を呼んだ。

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「聞いたか。ペリーの話を」

「聞きました」

「日本は、どうなると思う」

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澪は、少し考えた。

「開国します」

「そうだな。では、その後は」

「それが、問題です」

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陳翁が、茶を飲んだ。

「清が、どうなったか知っているな」

「はい」

「インドが、どうなったか」

「はい」

「では、日本は?」

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澪は、答えた。

「清やインドと、同じにしない」

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陳翁が、目を細めた。

「どうやって」

「知っているから」

「知っているだけでは足りん」

「知っている人間が、動くから」

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陳翁が、しばらく澪を見た。

それから、笑った。

「この娘、大きくなったな、仁三郎」

仁三郎が、何も言わなかった。

でも。

口元が、かすかに上がっていた。

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陳翁が、引き出しから封筒を出した。

「これを持って行け」

「何ですか」

「私の知り合いへの紹介状だ」

「日本に、知り合いがいるんですか」

「長崎に、一人いる」

「どんな人ですか」

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陳翁が、静かに言った。

「幕府の通詞だ」

「通詞?」

「通訳だ。外国語を幕府に伝える仕事をしている」

「その人が、助けてくれますか」

「わからん」

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陳翁が、澪を見た。

「でも」

「お前なら、使えると思ってくれるだろう」

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《澪》

SIAMが、静かに言った。

《これが》

《日本への、最初の糸口です》

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── 語り ──

二週間後。

仁三郎の船が、準備できた。

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出発の朝。

澪は、島を一周歩いた。

白い砂浜。

青い空。

仁三郎が建てた、板張りの家。

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七年前。

ここで、目が覚めた。

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(ここから、始まった)

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「SIAM」

《はい》

「ありがとう」

《何のお礼ですか》

「全部」

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《澪》

《私こそ》

《ありがとうございます》

「何が?」

《待っていた七年間に》

《意味を与えてくれました》

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澪は、空を見た。

青かった。

どこまでも、突き抜けるような青だった。

────────────────────

あの日と、同じ空だった。

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(私は、変わった)

(でも、空は同じだ)

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「行こう、SIAM」

《はい》

《北へ》

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船が、動き始めた。

白い砂浜が、遠くなった。

島が、小さくなった。

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仁三郎が、舵を握りながら言った。

「澪」

「はい」

「日本に帰っても、死ぬなよ」

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澪は、笑った。

「死にません」

「約束か」

「約束します」

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仁三郎が、前を向いた。

「……よし」

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── 語り ──

船が、北へ向かった。

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波が、船底を叩いた。

風が、帆を押した。

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羅針盤の針が。

北を指していた。

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《澪》

「なに」

《EDOが、言っています》

「何て」

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《「早く来い」と》

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澪が、笑った。

「会ったこともないのに」

《AIは》

《会わなくても》

《わかることがあります》

────────────────────

「何が、わかるの」

《あなたが》

《必要だということが》

────────────────────

波が、高くなった。

日本が、近づいていた。

────────────────────

第九話「黒船の予感」了

──────────────────

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