85日目(5)
85日目(5)
煙の立ち込める中に教会が幻の様に浮かび、窓の幾つかから時折閃く赤い光。
燃え盛る木々から移った炎が、庭園に積もった枯れ草を舐め、教会まで伸びていた。
建物の角の方で、新たな黒煙が燻り始めている。
煙の向こうに聞こえる銃声。フロート達は教会の中から、津衣菜達を狙撃しようとしているらしかった。
「アホかあっ……そんな距離でこんな煙いのに、散弾銃なんか当たりっこねえ」
嘲る丸岡だったが、こちらも殆ど見えない中での片手撃ち。
これ以上近付けば多少は見通しも良くなるだろうが、相手にも彼らの姿は丸見えとなる。
ショットガンの射程内で、教会内のフロート達に圧倒的有利な状況となるだろう。
弾はもう少し残っている様だったが、リボルバーへ込め直す度にかなり手間がかかる。
見かねて手伝おうとする津衣菜を制し、丸岡は言った。
「いらねっ。おめえは裏回って、何とか中に入り込め。このままじゃ埒あかねえ」
「だけど」
「こっちゃあ、ポンコツ同士、奴らの牽制は出来てる様だかんよ」
一人になった丸岡がここで持ち堪えられるか、津衣菜には分からなかった。
尚も躊躇っている津衣菜を見て、丸岡は苦笑を浮かべる。
「気にすんない。言われた通りに、嬢ちゃん助けっ事だけ考えてりゃ良かったのによぉ、大体ぁ欲かいた俺の自業自得だ……自分を押し通す事しか知らねえ、融通も利かねえジジイらは、最後ぁこういう事になんだよ」
煙の中に人影が浮かび、次の瞬間、土気色の顔の男が至近距離で姿を現した。
その頭部に続けて二発。仰向けに倒れた男を再び煙が隠した。
丸岡は、薬莢を排出した銃をひらひら振って、強い口調で津衣菜を促す。
「おめえは大事なもん見失わずに、おめえの道を走りゃあいいんだ――ほれ、行けっ!」
意を決して、津衣菜は煙の中へと駆け出す。
炎の来ていない側から教会を回り込もうとすると、玄関からも近く煙も薄い所へ出てしまった。
玄関からも窓からも彼女の姿は露わとなってしまっている。
だが、教会の狙撃者達は丸岡に集中し、誰も津衣菜に注意を向けなかった。
教会の裏手は崖に面し、すぐ目の前に夜の海が黒く広がっていた。
津衣菜は海を背にして、改めて林全体に広がっている火災を、火の粉と共に濛々と上がる赤い靄として確かめる事が出来た。
屋根の向こうに、建物に移り始めた炎が僅かに見える。
こちら側の壁一枚向こうは礼拝堂だが、扉は一つもない。
津衣菜は胸を反らして頭上を見上げる。屋根のすぐ下にアーチ状の窓が二つ。
黒くぽっかりと空いている割れ窓と、つい昨日、内側から見たばかりのステンドグラスの窓。
ぶううぅん……
「うううう……」
波の音と炎の音に混じって何かの振動音とうめき声が聞こえた時、津衣菜は最初、空耳だと思った。
それが何度も、複数重なり聞こえて来て、それが実際に発せられたものと気付く。
音の出所はすぐに分かった。数メートル先に木とトタン板の小屋が建っている。
教会とも不釣り合いな和風の作りだが、かつては教会の納屋か何かだったと思われる。
津衣菜は思い出す。教会の裏手に『モルグ』と呼ばれる場所があり、腐敗が進み動けなくなった発現者を、フロートはそこへ引きずっていた。
ボロボロの引き戸を開けた時、冬だと言うのに夥しい蝿の羽音が耳に飛び込んで来た。
光の射さない真っ暗な中に白く蠢いている。床に並べられた数体以上の発現者ではなく、彼らに集った無数の蛆虫が。
その上の闇で、羽化した成虫は飛び交っているのだろう。
蝿に負けじと、声を立てられる発現者が呻いていた。小屋の外、視界の端に白く、白い木の板が十本以上並んでいるのに津衣菜は気付く。
小屋の中には発現者だけではなく、腐った肉のついた白い人骨も転がっている。発現者のものではない、彼らが痛みから逃れようと食した『収穫物』だ。
津衣菜はしばし、小屋の中の光景を何も言わず見つめていたが、リュックから筒を一本取り出してスイッチを入れる。
口を開きかけて閉じ、苦笑する。再び口を開くと、静かに彼らへ語りかけた。
「明日はいい日だなんて、私にはとても言えない……でも……あんたらのこの夢は、これで終わる」
筒を発現者達の傍に放り投げて引き戸を閉じ、彼女は小屋を後にする。
彼女が教会の壁をよじ登り始めた時、小屋の隙間から洩れていた煙は火に変わり、小屋の外側を包み始めていた。
壁の凹みに足と左手を掛け、津衣菜は気配を殺してステンドグラスの近くに張り付いていた。
割れ窓をいきなり覗けば見つかる恐れが高い。そちらは避け、ステンドグラスから中を覗けないか調べる。
「――やっぱり」
期待していた物を見つけ、津衣菜は呟く。
数種類の色のガラスを組み合わせて窓に描かれた、少女と彼女を囲む天使や人々の絵。
黒い部分に見えていた幾つかの場所が、実際には欠けていた。
そこから内部を覗き込む。
窓の外の炎に、赤々と照らされている礼拝堂。
津衣菜の視界が真っ先に捉えたのは、聖壇に向かって跪き、祈りを捧げている日香里の姿だった。
日香里の後ろに、赤いソファーの背もたれが見える。『王』の姿はない。
津衣菜は身体を引いて、窓の真下の聖壇やオルガンの辺りを確かめる。そこにも誰もいなかった。
がしゃんっ。
突然の金属音に、津衣菜はソファーへ視線を戻す。背もたれの陰から起き上がった『王』が、こちらを見てショットガンの銃口を向けている。
反射的に津衣菜は身を伏せるが、銃声と共に目の前のガラスが粉々に砕け散った。
「――津衣菜さんっ!」
ガラスの破片と共に降って来た津衣菜を見て、日香里は声を上げる。
落下途中で津衣菜は壁に両足をつき、聖壇の奥の錆びた十字架を左手で剥がして投げつけた。
ショットガンをスライドさせていた『王』は、ソファーから飛びのく。十字架は背もたれに深々と刺さり、ソファーが2メートルばかり床を滑って行った。
続けて壁を蹴って、津衣菜は『王』へ飛びかかる。
『王』に迫りながら、リュックから抜き取った筒を彼へと投げつけた。
両端から煙を噴き出した筒を、『王』はショットガンの台尻で弾き飛ばす。
くるくる回って彼の背後に落ちた筒から炎が上がり、その火は床の絨毯やごみを伝って燃え広がって行く。
津衣菜の振り上げた右腕のギブスを、『王』は銃身で受けた。
金属音が鋭く響き、二人は互いに後ろへ飛んで距離を取る。
『王』は素早く銃を構え、引き金を引く。ポンプの滑る金属音だけが響き、弾は出なかった。
舌打ちしながら彼は銃を投げ捨てる。
「あまり火力ねえな。いくら俺でも、こんなもん一本でどうにかなると思ったか」
「今、使ったのは……身軽になる為よ」
着地した津衣菜は、筒の入っていたリュックもその場に下ろすと、足元に転がっていた細い鉄骨を拾い上げる。
廊下への扉が音を立てて開き、噴き出る様な煙と共に、一体のフロートが彼女へと突進して来た。発現しているのかいないのかも、もう定かじゃなかった。
津衣菜は、鉄骨を真横にフルスイングさせて、その首を吹き飛ばす。
「躊躇ねえなあ。同じ人間だと思ってねえからかよう? 人間の頭って死んでも便利なもんだよなあ。心臓動いているかいねえかで生者と分けられ、今度は腐っているかいねえかで死人同士を分けるんだからよ」
『王』は懐から取り出した煙草を咥え、ライターで点火する。
「呼吸……してるのか?」
煙を吐き出した彼に津衣菜が尋ねると、小馬鹿にした様な眼で彼は答えた。
「ああ? フロートだって呼吸するんだぜ。でなきゃ、お前もどうやって喋んだよ――肺には入んねえけどなあ」
咥え煙草のまま、『王』はソファーへ戻り、そこから柄の長い手斧を取り上げる。
「俺には、どうやっても、そういう割り切った見方は出来ねえんだよなあ」
煙草を吐き捨てると、彼はそう言って豹柄のガウンを片手ではだけた。
津衣菜は彼を凝視する。
露わとなった『王』の胸から脇腹にかけて、何か所もケロイド状に肉が化膿して腐り落ち、肋骨の見えている箇所さえあった。
脇腹の特に広く抉れている所には、内臓を捨てたらしい空洞が覗いている。
「あんた……それ……」
「正直言ってな、毎日毎日、痛くてしょうがねえんだよ……いつまで意識があんのかも分かんねえ」
ガウンから手を離して戻すと、両手に手斧を構えて『王』は津衣菜を睨みつけた。
「俺も普通に殺せるのか、試してやっからよ」
全ての窓から赤い光が差し、煙の濃く漂い始めた礼拝堂内。
津衣菜と『王』は何度も鉄骨と斧を振り上げ、打ち付け合う。
「何故、ここまで、自分の王国にこだわった」
一旦距離を取って対峙した時、津衣菜は訊いた。
「フロートになって甦っちまった俺ぁ、どこに行けばいいかも、どうしたらいいかも分かんねえまま、海辺を彷徨った」
『王』はここまで言うと津衣菜へ距離を詰めて、斧を横へ振り払う。
一歩下がった津衣菜へ、返しで更に斧を振る。振りながら続けて言った。
「あちこちの町や山の中で、同じ様になってる奴らを何人も見つけて、そいつらも連れて来た」
振ろうとした斧に津衣菜は鉄骨を突き出す。
1秒足らず押し合った後、二人は数回打ち合う。
「途中で具合が悪くなって、腐って行く奴も、動けなくなって置いてった奴もいたさ。俺ぁ、どうしたらいいのか、全く分かんねえままだった」
津衣菜と『王』は再び離れ合う。
「最後にここに流れ着いて、他にやりたがってる奴もいなかったから、俺が王になった。俺が全てのやり方を決めた。俺の居場所はここしかねえ」
直後に廊下の方で響いた爆発音。壁の一部が吹き飛び、教会全体が大きく揺れた。
更に大量の煙が流れ込む。日香里が咳き込んだ。
津衣菜は一瞬だけ彼女へ注意を向ける。
煙の中、日香里は祈りを止め、膝と両手をついたまま二人を見ていた。溺れかけているかの様に苦しそうな表情だが、二人から目を離そうとはしなかった。
「その王国を、何故守らなかった」
津衣菜は再び『王』へ問い質す。
「守って来たじゃねえか」
「これがか」
「腐ってるから、正気じゃねえから、そうやって仲間を切り捨てて、生者どもに安全アピールするのが守ったと言えるか。順番が違うだろうがよ……大事なのは仲間だろが。大事な奴の為にどうでもいい奴を先に刈れよ、違うかよお?」
津衣菜は答えない。
スピードを上げて斬りつけて来た『王』に対応するのに、喋れなかったのもあるが、それ程間違っている様にも聞こえなかったからだ。
「私だって、仲間が大事だ……仲間の為に、仲間の元に帰る為に、あんたらを潰したんだから」
「だろうがよお。俺ぁ、そうやって来たんだ。分かっかよお! 全てなくそうが、火に囲まれようが、俺は王だ。それがよ、俺のフロートとしての道だったんだ」
そうだ。
こんな奴も、こんな奴のテリトリーも、全て燃えちまえばいい。
こんな世界はどうなったっていい。生者どもの世界なんて、もうどうでもいい。
望むままに壊せ、必要なままに壊せ。与える為に殺せ、奪う為に殺せ。
私にとって大事な世界は一つ。私のここにいる理由は一つ。
一番に大事な存在は――
「またその目か。お前さん……どこへ向かってるよ……?」
間近で競り合いながら、『王』が津衣菜へ尋ねる。
「私に『行き先』なんかない」
短く津衣菜は答える。
答えながら、どこかへ滑り落ちそうな自分の意識をコントロールする。
今度は呑み込まれない。そう思いながらも、黒く濁った澱は背筋を駆け上るみたく、彼女の思考と感情に食い込んで行く。
ついにゃーは私の代わりに怒ってくれたんだね
讃美歌が聞こえた。
歌詞も聞き取れない程の小さい声だが、日香里が津衣菜に向かって歌いかけている。
鋭い金属音と鈍い音が響き、『王』の手首が変な方向にひしゃげた。
弾き飛ばされた斧が、宙に弧を描く。
何メートルも後ろへ飛ばされて、彼はソファーに叩き付けられた。
まるで寛いでいるみたいな姿勢の『王』は、折れ曲がった両手を顔の前に掲げ、ぼんやりと見つめる。
崩れた壁の向こうで丸岡の怒鳴り声が聞こえる。軋む音が酷くて、こちらも聞き取れない。
日香里の手を取り、起こそうとした時、建物中からばきばきと割れる様な音が響き、いつか見た夢の様に天井が炎と共に崩れ落ちた。
「日香里!」
鋭い声を上げて、津衣菜は日香里を肩で支える。玄関へ向かおうとした時、日香里は顔を聖壇の方へ向けた。
津衣菜が彼女の視線を追うと、ソファーの上でふんぞり返った『王』は、崩れ落ちて来る天井を見上げている。
日香里と目配せし合って、津衣菜はソファーへと早足で近付く。
「ねえ、あんた、まだ動けるんでしょう?」
「何だおめえ……俺を助ける気か」
「そんなんじゃない。とにかく出るの。考えるのは後よ」
『王』は差し出された津衣菜の左手に、自分の折れた手を伸ばした。
津衣菜が彼の腕を取り、ソファーから引き起こす。
「俺は、もう戻れねえんだよ」
「え」
津衣菜が声を上げた時、彼女は『王』に肘で肩を突かれ、日香里と共に背後へよろけた。
次の瞬間、彼女のさっきまで立っていた辺りに、炎に包まれた天井の梁や屋根の板が次々と落下する。
破砕音と土煙と火が、『王』の姿をかき消した。
「早く! 早く出ろってえの!」
丸岡の怒声がはっきり響き、津衣菜は今度こそ出口へ向かって駆け出した。
炎と落ちて来る瓦礫を避けながら、二人は崩れた壁を通り抜け、まだ燃え続けていた庭園も通り抜ける。
轟音と共に教会全体が崩れ落ちたのは、二人と丸岡が崖を飛び降り、3メートル程下の岩棚に着地した時だった。
音と、異様な量の火の粉で、彼らはそれを知った。
火の粉に混じって、何か紙片みたいなものが崖の上から舞い落ちて来る。
「――?」
津衣菜はふと、それをキャッチして確かめた。
紙片に見えたそれは、写真だった。
その写真には作業服を着た『王』と、彼によく似た顔立ちの金髪の青年、そして『王』と揃いの作業服を着た太めの中年女性が、笑顔で肩を並べながら写っている。
俺は、もう戻れねえんだよ。
彼の最後の言葉が、頭の中でリフレインした。
「主よ、彼らに必要だったのがあなたの導きであった事を、あなたは知っています。
彼らがあなたの名を呼び、あなたを求めていた事を知っています。
彼らの中に、あなたの栄光はあり、あなたの示した試練とその先の喜びについて、彼らは誠実であった事を、あなたは認めるでしょう。
あなたの家にて、彼らの魂は迎え入れられるでしょう。
主の御心のままに、全てが為される事を……」
小声で繰り返されている祝詞。
津衣菜の隣で、日香里は両手を組んで祈り続けていた。
「日香里……ずっと祈っていたの? あいつらの……為に」
「はい。彼らは罪を重ねている最中でも、誰よりも神を必要としていました。それを知るのは私と、神だけです」
津衣菜の問いに、彼女は祈りを中断して返事する。
「一人でいた間、奴らが戦っている時も……」
「はい。私にはそれしか出来ませんし……それが、あの時、あの場所で私のするべき事でしたから」
「そうか……」
理解した訳ではないが、津衣菜はそう答える。
この辺りでも消火活動が始まったのか、消防車のサイレンはさっきよりも近くに聞こえていた。




