番外編 秘密の恋の甘い味(上杉タクヤ視点)
カオルがいなくなってから、俺はひたすら胸に空虚感を抱くようになっていた。
いつまでもこのままではいけないと己を叱咤する。カオルは俺の愛を忘れないと言ってくれた。しっかりしていないと、遠くに行ってしまった彼女は幻滅してしまうだろう。
そう自覚しながらも、なかなか割り切れるものではない。感情が抜け落ちた俺を見かねたのか、バイト先でパートの二見ヨリコさんがそっと話しかけてきた。
「本当は言っちゃダメなことなんだけど、タクヤくんは知る権利があると思うの」
「なんの話ですか?」
ヨリコさんは辺りを見回して、誰もいないことを確認してから俺の耳に囁いた。
「この手紙に真実を書いてみたの。カオルちゃんのことや、このお店のこととかね。読んだら処分して、誰にも話さないでね」
白い封筒を胸元に差し込まれる。わけがわからなかったけど、ヨリコさんの真剣な様子に圧倒されて俺は頷いた。
バイトを終えて自宅に帰ってから、渡された白い封筒を取り出す。なんとなく自分も周囲に誰の気配も感じないことを確認してから、便箋に綴られたヨリコさんの文章を読み始めた。
「え……」
ヨリコさんの性格が表れているような綺麗な文字の手紙は、何枚にもわたる信じられない内容だった。
ここがゲームの中の世界? カオルは現実に帰った?
まるで夢の中の出来事を読んでいるようで、まったく実感が湧かない。
しかし何回も読み返すと、だんだん真実に思えてくるから不思議だ。カオルは俺を通じて、現実の「拓也」を見ていたのだと、その事実が納得できてしまう。
カオルは秘密めいたことが多かったけど、俺に嘘はつかなかったから。彼女をよく見ていた俺には、ヨリコさんから伝えられたことが本当だとわかってしまった。
「ははっ、俺は俺自身に負けたのか」
乾いた笑いは空に溶けて消える。
それでもこの世界の中で、カオルは真っ直ぐ俺だけを見てくれた。たとえそれが現実の「拓也」の面影を追っていたのだとしても、この世界の中でだけは、俺は彼女を独占できていたのだ。
それがわかっただけでもよかった。胸に抱く空虚感が少しばかり軽くなったように感じた。
翌日、バイト先で手紙をヨリコさんに返した。処分してくれと言われていたけど、カオルの真実が書かれている手紙を、俺には捨てることができない。
「読みました。わざわざ気遣ってくれたみたいで……でも、ありがとうございます」
「……本当のことだって信じたの?」
「はい。最初は信じられませんでしたが、何回も読んでいるうちに腑に落ちることが多かったですから」
俺は今、ちゃんと笑えているだろうか。ヨリコさんは複雑そうな表情で俺を見つめる。
「あのね、一回だけ。一回だけ、こっちの世界とカオルちゃんの世界を繋ぐことができるよ。もし、どうしてもカオルちゃんに会いたくなったら言ってね」
ヨリコさんの言葉は魔法のように、俺の中に深く沈み込んでいった。一回だけか。俺は自分がどうしたいか、じっくり考える必要があるな。
◇ ◇ ◇
俺は数ヶ月考え続けて結論を出した。カオルへの未練はまだ消えていない。彼女のために、そして俺のためにも吹っ切ることが重要だった。
ヨリコさんを内密に呼び出して、俺の考えを告げる。
「きっとカオルは現実の拓也と結婚するんでしょう。その日に世界を繋げてくれませんか?」
「まさか結婚式を……」
青ざめたヨリコさんに対し、俺は静かに首を横に振る。
「結婚式を台無しにしようとは思っていません。カオルに結婚のお祝いを贈ったら、気持ちが整理できるんじゃないかと考えただけです」
「……そっか」
ヨリコさんは俯いて何かを思案しているようだった。顔を上げたとき、いつものヨリコさんの明るい笑みが浮かべられていた。
「それはとてもいい考えだと思うよ。何を贈りたいの?」
「チョコレートデコレーションを」
俺は即答した。彼女と食べ合ったケーキの味は忘れられない。きっとウェディングケーキは用意されているだろうけど、カオルなら笑って受け取ってくれるだろう。
ヨリコさんも同じように思ったのか、微笑んだまま教えてくれた。
「わかったよ。カオルちゃんの結婚式の日はね……」
具体的な日にちを聞いて、俺はそれまでに最高のチョコレートデコレーションを作ろうと決意した。
何回も何回も試行錯誤して、俺は自分が納得いくようなチョコレートデコレーションを作り上げた。
ケーキを作っている間は無心になれて、徐々に空虚な気持ちが消えていくように思えた。
そして当日。俺は大きなデコレーションケーキを大事に抱えて、ヨリコさんが待つ公園へ向かった。
「さあ、タクヤくん。準備はいいかな? 繋げられるのは十分間だけ。行ってらっしゃい!」
思い切りのよい掛け声とともに、俺は白い光に包まれた。
◇ ◇ ◇
「ここは……沖縄?」
いつかカオルと来た沖縄の青い海と空が見える。どうやら目の前のチャペルで結婚式の真っ最中のようだ。俺はそっと背を向け、チャペルから小道が続く会場へと歩いた。
入口に「浅岡薫」と「杉浦拓也」が記載されている会場にたどり着く。中に侵入すると、すでに準備は終わっており、真っ白なウェディングケーキが一際目を惹く場所にあった。
持参したケーキの箱を、白いウェディングケーキの横に置く。壊れないように箱を開けると、俺が無心で作り上げたチョコレートデコレーションが現れた。
箱だけ回収し、ケーキはその場に置いて会場から出る。まだ時間は残っているだろうか。
チャペルに戻って、窓から俺は中を覗き込む。
ウェディングドレスをまとったカオルを探して視線を動かすと、ヴェールを上げた美しい花嫁の顔が見えた。
「カオル……」
知っているカオルの姿とは違ったけど、俺には彼女だということがわかった。前向きな笑みと明るく輝く瞳はカオルのもの。彼女の煌めく眼差しの先には、俺によく似た男が立っていた。
「おめでとうございます、カオル。お幸せに」
そう呟いた途端、俺は再び白い光に包み込まれる。最後に二人の幸せそうな姿を見たら、何気なく振り向いたカオルと目が合った気がした。
◇ ◇ ◇
「お帰りなさい。無事にケーキは渡せたかな?」
公園でヨリコさんに出迎えられる。俺は晴れやかな気持ちで頷いた。
「はい、ケーキは会場に置いてきました。俺の未練も……あの場所でなくなったと思います」
明るく幸せそうなカオルを見てから、俺も幸せになりたいという前向きな感情が胸を占めるようになった。
きっと俺の成長にはカオルが必要だったのだろう。失恋は心を強くする力があると思えた。
ヨリコさんは俺の言葉を聞いて、にっこりと微笑んだ。
「よかった、よかったよ。タクヤくんにはちゃんと幸せになってほしいからね。じゃあ、また会いましょう」
ヨリコさんは手を振って、軽い足取りで公園から立ち去る。俺はどさりと芝生の上に座り込んだ。
「空が青いなあ。世界が違うっていうけど、沖縄と繋がっているみたいだ」
振り仰いだ空は青く眩しい。瑞々しい芝生の感触も手に伝わってきて、ここがゲームの世界だとはとても思えない。
俺は背負った荷物から小さい箱を取り出した。置いてきたチョコレートデコレーションと同じ材料で作った、俺一人用のケーキだ。
用意していたフォークでケーキを食べる。我ながら美味しくできたと自画自賛する味だった。
「秘密の恋の甘い味、か。そんなふうにカオルに思ってもらえたら、俺はそれだけで十分だ」
ケーキを食べ終わり、荷物を背負って公園を後にする。まだ時間があるから買い物でもしようかと考えながら歩き出すと、背後から名前を呼ばれた。
「タクヤさん!」
驚いて振り返る。俺の名前を呼んだのは、栗色の髪の女性だった。彼女は髪を綺麗にまとめてアップにし、淡いピンクのワンピースを着ている。さっき見た花嫁衣装の彼女ように輝いて見えた。
俺は思わず口走っていた。
「カオル……?」
女性は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、笑って首を横に振った。
「違います。前にそこの公園でヴァイオリンを演奏しているの、偶然聴いて。そのときにいた女性が『タクヤくん』と呼んでいたので、お名前がそうなのかな、と……」
恥ずかしそうに顔を紅潮させて、彼女はたどたどしく話す。
「あのヴァイオリンの音色が忘れられなくて、ずっと探していました。もしよかったら、私にヴァイオリンを聴かせていただけないでしょうか」
明るく輝く女性の瞳を、俺は言葉もなく見つめ返していた。
恋と呼ぶには早い感情だけど──この女性との出会いは俺に何かをもたらしてくれる。そんな予感を覚えつつ、俺は無意識に頷いていた。
カオルから教えてもらった「スイーツブーケ」という曲が脳裏に蘇る。きっとまた俺は誰かと一緒に食べるんだ。──秘密の恋の、甘い味を。
『あなたと甘いお菓子が食べたいの
秘密の恋の甘い味
二人きりで煌めくケーキを食べる
あなたの綺麗な瞳に見つめられながら食べると
恋の魔法で何倍も美味しくなるの
ずっと私の側にいてね
砂糖を溶かしたような甘いお菓子を一緒に食べましょう』
 




