余白の先まで、よろしくお願いします
冬の終わりが近づいたある夜、私は監理局の局長室で、年次更新用の分厚い書類束を前にしていた。
「多いですねえ……」
机に突っ伏しかけた私の前で、ミラが涼しい顔で頷く。
「年度替わりですから」
「分かってはいるのよ。分かってはいるんだけど、どうして毎年こう、全部いっぺんに来るのかしら」
「人は締切が見えないと動かない生き物だからです」
「真理」
思わず遠い目になっていると、扉が二度ノックされた。
「入って」
返事をすると、ルシアンが書類箱を一つ抱えて入ってきた。
「追加だ」
「増やさないでください」
「王都から届いた。優先度は低い」
「低いなら明日で」
「同感だ。だから今日はこれで終わりにしろ」
「それはまた別問題です」
「同じ問題だ」
彼はいつものように私の机の端へ茶を置き、当然の顔で向かいへ座った。
最近ではすっかり定着した光景だけれど、ふとした瞬間にまだ不思議になる。
最初の夜、愛することはないと言い切った人が、いまでは私の終業管理をしているのだから。
「何を見ていた」
ルシアンが書類束を覗き込む。
「監理局の運営規程の年次更新案です。人員が増えたので、権限分掌を少し見直したくて」
「妥当だな」
「それと、生活協定の更新案も」
「……もうその時期か」
「毎年同じことを言ってますね」
「慣れん」
「公爵様なのに」
「公爵でも慣れないものはある」
私は笑って、机上の一枚を彼へ向けた。
結婚を再登録したときに作った、あの生活協定の最新版だ。
食事、睡眠、勤務時間、重大案件時の例外規定、休暇取得、体調不良時の申告義務。
当初は半ば冗談のように始めた文書だったのに、今では私たちの生活をかなり真面目に支えている。
「第三条は現状維持でいいとして、第七条を少し強くしたいんです」
「第七条?」
「片方が明らかに無理をしている場合、もう片方は遠慮なく介入してよい」
「十分強いだろう」
「まだ甘いです。あなた、たまに自分のことになると報告が遅いので」
「君に言われたくはない」
「それはそう」
お互い様である。
私は赤を入れながら、次の頁をめくった。
すると、末尾に小さな空欄があるのが目に入る。
去年の版にはなかった欄だ。
「……将来の希望、ですって」
思わず読み上げると、ルシアンがわずかに視線を逸らした。
「ミラが入れた」
「ミラ」
呼ぶと、扉の外から即座に返事が来た。
「はい」
「聞いてるわね」
「ええ」
「この欄は何」
「更新のたびに、今後一年で叶えたいことを一つ書いておくと良いのではと思いまして」
「軽い気持ちで夫婦の年次計画を制度化しないでちょうだい」
「でも素敵では?」
「素敵かどうかはともかく、恥ずかしいのだけれど」
「私は良い案だと思います」
外からネラの声まで混じった。
「増えた」
「聞こえておりますよ、局長!」
「勤務時間外です!」
「だからです!」
完全に包囲されている。
私は額を押さえ、ルシアンを見た。
「どうします?」
「……書くのか」
「このまま空欄でもいいですけど、後で絶対にミラに突かれます」
「それは面倒だな」
「ええ、とても」
しばらく沈黙が落ちた。
窓の外では、北の夜に細い雪が舞っている。
局内の灯りはほとんど落ちて、残っているのはこの部屋と、廊下の端の常夜灯くらいだ。
静かな時間だった。
書類の擦れる音と、湯気の立つ茶の香りだけがある。
「君は」
先に口を開いたのは、ルシアンの方だった。
「希望はあるのか」
「ありますよ」
「即答だな」
「考えたことはありますから」
「聞いてもいいか」
「もちろん」
私は少しだけ迷ってから、正直に言った。
「来年も、再来年も、その先も。こうして一緒に仕事の話をして、ちゃんとごはんを食べて、ちゃんと眠って、無理をしたら叱り合える生活がいいです」
言い切ってから、少しだけ照れが来た。
「派手ではないですけど」
「いや」
ルシアンは静かに首を振る。
「君らしい」
彼はペンを取り、自分の欄にしばらく何かを書いた。
そのまま紙を私へ差し出す。
覗き込むと、整った筆跡で、短くこう記されていた。
『セラフィーナが望むだけ長く、同じ卓で書類をめくること』
「……ずるい」
「何がだ」
「真面目な顔で、そういうことをさらっと書くところが」
「本心だ」
「知っていますけど」
胸の奥がじんわり熱くなる。
私は自分の欄へ、少し考えてから書き足した。
『余白ができたら、二人で好きな言葉を書き込める生活』
書き終えて見せると、ルシアンが目を細めた。
「いいな」
「でしょう」
「採用だ」
「採用されました」
私は紙を乾かすように軽く振ってから、更新済みの協定書へ綴じた。
最初は役割しかなかった結婚が、今ではこうして、毎年少しずつ言葉を増やしていく。
人の生活も関係も、たぶん最初から完璧な契約書にはならない。
必要なのは、余白を残すことと、その余白に何を書くかを一緒に決められる相手なのだ。
「よし」
私は書類束を閉じた。
「これで本日の最重要案件は完了です」
「では帰るぞ」
「はい」
立ち上がると、ルシアンが自然に私の手を取った。
もう驚かない。けれど、慣れたとも少し違う。
触れられるたびに、ああ本当にこの人は隣にいるのだと思う。
扉を開けると、外で待機していたらしいミラとネラが、揃ってにこにこしていた。
「書きました?」
「書きました」
「では今日は完全終業です」
「監理局の権限が強すぎない?」
「良い職場でしょう?」
ミラが得意げに言う。
私は吹き出し、隣のルシアンも小さく笑った。
良い職場で、良い家だ。
そしてたぶん、これから先も。
書類の山はまた積まれるだろう。
新しい契約も、難しい案件も、予想外の出来事もいくらでも来る。
それでも私はもう知っている。
余白の先まで、一緒に書いていける人がいるのなら。
きっとどんな頁だって、悪くない。
おまけ話でした。
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