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第2話「なんとなくの少女」

翌朝、リーンは予想通りの場所にいた。


カイが起きる前に配管の隙間から抜け出して、廃棄層の作業割当板の前に立っていた。錆びた金属板に刻まれた番号と区画の対応表を、指でなぞりながら読んでいる。


「早いな」


「カイのほうが遅い」リーンは振り返らずに言った。「ねえ、この割当って毎日変わるの?」


「基本は固定だ。班Aから班Dまで四つ。各班三十人前後。廃液処理、瓦礫撤去、配管整備、食料配給。ローテーションは月に一度」


「じゃあ、監督官の配置も固定?」


カイは足を止めた。


「なぜそれを聞く」


「逃げ方の話をするんでしょ?」リーンがようやく振り返った。朝の蛍光灯に照らされた銀髪が、薄く光っている。「逃げるなら、まず監視の穴を探すのが先じゃない?」


正しい。


論理的に正しい。カイが三年かけて辿りついた結論の、最初の一歩と同じだ。


「……座れ。点呼まで二十分ある」


二人は配管の裏に戻った。カイは壁に背を預け、リーンは膝を抱えて向かい合う。


「まず前提を共有する。廃棄層から出るには二つの方法がある」


「一つは上昇試験。もう一つは?」


「力ずくで突破する」


「試験のほうが安全じゃない?」


「安全だが、条件がある。第五層から第四層への上昇試験は年に一度。定員は五名。応募資格は監督官の推薦が必要だ」


「デッラに推薦してもらうの? あの人、カイのこと殴ってたよね」


「だから試験は使えない。少なくとも正規のルートでは」


リーンが首を傾げた。目の奥がまた鋭くなる。


「正規じゃないルートがあるってこと?」


カイは道筋を展開した。


目的:リーンに計画を説明する。


金色の線が現れる。話すべき順序が示される。何を先に伝え、何を後に回すか。


「上昇試験の仕組みを先に説明する」カイは言った。「試験は三段階。第一段階は筆記。第二段階は実技。第三段階は面接。全て第四層との境界にある試験場で行われる」


「うん」


「重要なのは、試験期間中だけ第五層と第四層の間の隔壁が開くということだ。つまり上昇試験の出来レースを利用して——」


「ズルするってこと?」


カイの言葉が途切れた。三年間温めた計画を、一言で要約された。


「ズルじゃない。最適化だ」


「最適化」


「既存の仕組みの穴を見つけて、最小のリスクで最大の成果を得る。出来レースで警備が緩んでいるのは試験側の設計ミスだ。ミスを利用するのは合理的な判断であって——」


「カイ」


「何だ」


「それ、長い言い方でズルって言ってるだけだよね」


「……黙れ」


リーンが声を殺して笑った。


「いいよ、ズルでも最適化でも何でも。で、具体的にどうするの?」


「試験に受かる必要はない。試験の日に隔壁が開いている間に通り抜ければいい」


リーンが頷いた。


「……それを言うのに三年かかったんだが」


「ごめん」リーンが笑った。「でも合ってるでしょ?」


合っている。完全に。


「問題は隔壁が開いている時間だ。試験期間は三日間。だが隔壁が完全に開放されるのは、受験者の移動時間だけだ」


「何分?」


「朝の移動が十五分。昼の休憩移動が十分。夕方の帰還が十五分。計四十分。三日間で合計百二十分」


「百二十分のうち、監視が最も薄い時間帯は?」


カイはリーンを見た。


「お前、本当に記憶がないのか」


「ないよ。でも考えればわかることじゃない? 監視には人が必要で、人には癖がある。癖には隙がある」


「でもさ」リーンが膝を抱えたまま付け足した。「合理的ってなんなの? カイがそう思ってるだけでしょ」


「合理的は合理的だ。客観的に——」


「カイの『客観的』って、カイの道筋が出した答えってことでしょ。それって主観じゃない?」


カイは口を閉じた。反論が出てこない。道筋を客観的事実だと思い込んでいた。そこにずらしを入れてくる。


「……朝の移動時間だ」カイは話を戻した。「監督官グレオが担当する。グレオには癖がある」


「どんな?」


「移動開始から十五分の間、最初の五分は受験者の列を見ている。次の五分は通路の先を確認しに行く。最後の五分は戻ってくる。つまり中間の五分間、グレオは隔壁から最も離れた位置にいる」


リーンの目が光った。


「グレオの五分間」


「そうだ。この五分間に隔壁を通過する。それが最初の計画だった」


「最初の?」


「変更する。お前の目を使って、もっと確実な方法を組む」


---


三日が経った。


リーンの観察力は異常だった。


三日目の夜、配管の裏で報告を聞いた。


「監督官デッラ。巡回ルートは固定。朝六時に東通路、六時十五分に中央広場、六時半に西通路。ただし水曜だけ中央広場を飛ばす。たぶん水曜の朝は腹を下してる。トイレに行く時、右手で腹を押さえてたから」


カイは黙って聞いていた。


「グレオ。巡回は不規則に見えて、実は配管の音に反応してる。カンカンって金属音が鳴ると必ず音のほうを見る。条件反射っぽい。あと、左目の視力が悪い。左から近づく人間に気づくのが遅い」


「三番通路の蛍光灯。点滅周期は約四十秒。消えている時間は三秒。その三秒間、通路の中央六メートルが完全な暗闇になる」


全て正確だった。カイが道筋で確認しても矛盾がない。しかもカイが三年かけて把握した情報に、新しい要素がいくつも加わっている。


「お前の目は何でできてるんだ」


「普通の目だよ」リーンは笑った。「たぶん」


「もう一つ」リーンが指を立てた。「上昇試験の裏の仕組み、見つけた」


「何を見つけた」


「試験の合格者は、毎年必ず同じ班から出てる。班A。班Aの班長はデッラの弟のムーロ。つまり——」


「出来レースか」


「うん。推薦から合格まで全部決まってる。でも大事なのはそこじゃない」


リーンの目が光っていた。


「出来レースってことは、試験中の警備が緩いの。だって結果が決まってるんだもん。不正を警戒する必要がない。だからグレオの五分間だけじゃなくて——」


「試験全体を通して、監視が通常より甘くなっている」


「そう。特に第二段階の実技の時間。受験者は試験場にいて、監督官も試験場に集中する。その間、隔壁は閉じてるけど、隔壁の監視員が一人減る」


カイの頭の中で、計画が組み変わっていく。三年間温めてきた計画が、リーンの情報で一気に精度を上げた。


道筋を展開した。


目的:上昇試験中に隔壁を通過する。


金色の線が変わった。グレオの五分間に向かっていた線が、枝分かれして新しいルートを描いた。第二段階の実技時間。監視員が一人減るタイミング。隔壁の電子錠——


「リーン。隔壁の電子錠、見たことあるか」


「あるよ。昨日、配管整備の時にわざと近くを通った」


「型式は」


「わからない。でも端末と同じ系統だと思う。基板の配置が似てた」


「端末?」


「あ、まだ言ってなかった。これ」


リーンが作業服の内側から何かを取り出した。


黒い箱。表面にひびが入り、ケーブルが千切れている。


「三番通路の瓦礫の中にあった。上層から落ちてきた端末だと思う」


「ゴミだろ」


「待って」リーンが端末を裏返した。「ここ、パネルが外れそう」


細い指が背面のパネルをスライドさせた。迷いのない動きだった。まるで何度もやったことがあるかのように。


「リーン。お前、機械を触ったことがあるのか」


「ないよ。でも……なんとなく」


また「なんとなく」だ。


パネルが外れた。中に小さな基板が見える。リーンの指が基板の上を走った。


「ここが電源。ここが通信モジュール。これは……記憶装置かな」


「なぜわかる」


「わからない。でも指が知ってる」


リーンの指が一点で止まった。


「ここ。接触不良だと思う。押さえたら——」


端末の表面に、一瞬だけ光が走った。文字が浮かんで消えた。


カイの目が捉えた文字列は一つだけだった。


「ABYSS-OS v4.7」


意味はわからない。だが頭の奥で何かがちらついた。「OS」という文字の並びに、知らないはずの親しみを感じた。


「動かないか。電力が足りないのかも」リーンは残念そうに端末を置いた。「でもこれ、上層の通信端末だと思う。直せたら情報が取れるかも」


「直せるのか」


「わからない。でもやってみたい」


カイはリーンの手を見た。端末を触っている時の指の動きが、あまりに自然だった。記憶がない人間の動きではなかった。


---


七日目。


計画はこう組み変わった。


上昇試験の第二段階実技の時間帯。監視員が一人減る隙を突いて、リーンが電子錠を解除する。カイが道筋で監視の穴を見つけ、二人が隔壁を通過する。


問題は、リーンに電子錠を開けられるかどうかだった。


「お前の直感に命を預けるなんて正気じゃないな」


「カイの道筋だって外れたことあるでしょ」


「……ない」


「嘘。さっき三回外れてた」


「……二回だ」


「ほら、やっぱり外れてるじゃん」


リーンが勝ち誇った顔をした。カイは天井を見た。この少女には論理で勝てない。論理で勝てないというのが、そもそも論理的にありえないのだが。


「練習できるか」


「端末の修理を兼ねてやる。端末と電子錠は同じ系統だから、端末を直せれば電子錠も開けられると思う」


「思う?」


「思う。確信は七割くらい」


「七割じゃ足りない」


「じゃあ残りの三割はカイが道筋で埋めてよ」


カイは道筋を展開した。


目的:リーンの電子錠解除の成功率を上げる。


金色の線が走った。リーンが端末の修理を重ねるほど、線が太くなっていく。七割が八割になり、九割に近づいていく。


「……端末の修理を続けろ。手を動かすほど精度が上がる」


「道筋が言ってるの?」


「そうだ」


「便利だなあ、その目」


「便利じゃない。万能じゃない。情報が足りないと霧になって消える。予測できない事態には対応できない」


「じゃああたしが情報を集めて、カイが道を引く。いいチームじゃん」


カイは答えなかった。ただ、道筋が一人で描いていた時よりも枝分かれが少なくなっているのを感じた。


---


八日目の廃液処理中。


カイは黙々と作業をしていた。道筋を展開し、飛沫を避け、容器を運ぶ。いつもの手順だ。


ふと、ポッツが作業場の危険区域に踏み込みかけた。足場が不安定で、一歩間違えれば廃液の溜まりに落ちる。


カイの道筋が走った。介入すべきか。


——しなかった。


ポッツの足は自分でバランスを取り直した。危ない場所を本能的に避け、安全な足場に着地した。


カイはそれを見ていた。拳を握っていた。右手の爪が、掌に食い込んでいた。我慢した痕。ポッツが踏み外しそうになった瞬間、飛び出しそうになる体を押さえつけた痕だった。


ポッツは気づいていない。自分で避けたと思っている。


それでいい。ポッツは自分で判断できる。信じている——わけではない。ただ、助けないほうが合理的だ。


リーンが隣の作業場からこちらを見ていた。カイの拳を見ていた。


視線を逸らした。


「ねえカイ」


「黙って作業しろ」


「なんで廃液って臭いの?」


話題を変えてきた。カイの拳のことは——言わなかった。見てしまった秘密に、触れなかった。


「化学反応だ」


「化学反応って何?」


カイは容器を置いた。


「……お前は質問が多すぎる」


「だって知らないことだらけなんだもん。記憶がないから」


「記憶がなくても嗅覚は生きてるだろ。臭いとわかればそれでいい」


「でも理由を知りたいの。なんで臭いかわかったら、臭くない方法も見つかるかもしれないじゃん」


カイは呆れた。だが道筋は——リーンに答えることを推奨している。なぜかはわからない。


「……有害物質が空気中の水分と結合して、揮発性の酸になる。それが鼻の粘膜を刺激する。だから臭い」


「ふうん。じゃあ水分が少ない場所なら臭くない?」


「理論上はそうだ」


「換気口の近くは湿度が低い?」


「……低い。乾燥した空気が流れてくるから」


「じゃあ換気口の近くで作業すれば、少しマシってこと?」


カイは手を止めた。


その発想はなかった。三年間、道筋で飛沫を避けることしか考えていなかった。環境そのものを変えるという発想が——


「作業場は指定されてる。換気口の近くには移動できない」


「そっか」


淡白な返事だった。落胆でも諦めでもない。ただ「そっか」と受け止めて、すでに次のことを考えている顔。


「じゃあいつか、臭くない場所に行こうね」


「……ああ」


カイは作業に戻った。


リーンの声には独特の抑揚がある。語尾がほんの少し跳ねる。「行こうね」の「ね」の部分。夢の中の声——「今日もよろしく」——の「く」と、同じ跳ね方をする。


気のせいだ。


気のせいのはずだ。


ポッツが通りかかった。カイとリーンの会話を聞いていたらしい。


「お前、冷たいくせに面倒見いいよな」


「冷たくない。助けてるんじゃない。管理して——いや、管理でもない。ただ——」


カイは言葉に詰まった。「管理」でもなく「助けてる」でもなく、正確に言い表す言葉が見つからない。


「今の、何て言おうとしたの?」リーンが聞いた。


「……何でもない」


ポッツが肩をすくめた。「お前のその『管理』のおかげで、俺も先月の廃液飛散の時に助かったんだろうよ」


カイの眉がぴくりと動いた。


「知らないな」


「とぼけるなよ。あの時、俺の前の地面に石が飛んできて廃液が反れた。偶然にしちゃ出来すぎだ」


「偶然だ」


ポッツが行ってしまった。


リーンがカイを見ていた。にやにやしている。


「何だ」


「さっきの言い間違い、面白かった」


「言い間違いじゃない」


「管理でもないし助けてるでもないなら、何なの?」


「……黙れ」


「カイって、自分の気持ちに名前つけるの、下手だよね」


カイは口をつぐんだ。


リーンが柔らかく笑った。この笑い方は、他の奴隷の前で見せる笑い方とは違った。口角の上がり方が小さくて、目が細くなる。作り物ではない、リーンだけの笑い方だった。


カイは——それに気づいていたが、言葉にはしなかった。


---


十二日目。


計画に第三の人物が必要だった。第四層以降のルートの情報がない。


「ガルドさんに聞けないの?」リーンが言った。


カイは眉を上げた。


「ガルドを知ってるのか」


「うん。配管整備の時に会った。六十くらいの白髪のおじいさんでしょ? あの人、他の奴隷と違う。目が違う」


「どう違う」


「諦めてない目。それと、地上の話をする時だけ声のトーンが変わる。懐かしそうに。あの人、地上を知ってると思う」


カイは息を吐いた。


ガルドは廃棄層の古参だ。二十年以上前に第四層から落とされてきた。カイの母が死んだ後、カイに食料を分けてくれた唯一の人間。母に代わってカイの話し相手になり、文字を教え続けてくれた男。ガルドがいなければ、カイはとっくに死んでいた。


ガルドの口癖は「考えることをやめるな」だった。母と同じ言葉。偶然ではなかったことを、カイはまだ知らない。


そしてガルドは、おそらく地上の真実を知っている。半年前、酒に酔った夜に「空は、青いんだ」と呟いた。地上は灼熱の荒野だと教えられているのに。


リーンは十二日でそれを見抜いた。


「……明日、話してみる」


---


十五日目の夜。


リーンが端末の修理を続けていた。瓦礫から拾った部品を組み合わせ、切れたケーブルを繋ぎ直している。


カイは計画の見直しをしていた。道筋を展開し、上昇試験までのルートを確認する。


ふと、気づいた。


リーンの呼吸音が聞こえない。


端末に集中しているリーンを見た。目は開いている。指は動いている。生きている。だが呼吸の音がしない。


いや、している。だが異常に静かだ。普通の人間の呼吸は、静かな場所なら聞こえる。カイの耳はこの三年で研ぎ澄まされている。ポッツの寝息も、隣の区画の奴隷のいびきも聞こえる。


なのにリーンの呼吸は、意識しないと聞こえない。


初日の夜もそうだった。寝息が聞こえなかった。寝返りもなかった。


まるで——


「ねえカイ」


「何だ」


「この端末、もう少しで動くと思う。電力さえ確保できれば」


「電力はどうする」


「廃液処理場の非常用電源から引っ張れないかな。あそこ、バッテリーが余ってるでしょ。壊れかけのやつが三台あった」


「お前、非常用電源のバッテリーの在庫まで把握してるのか」


「なんとなく目に入っただけだよ」


「お前の『なんとなく』には毎回驚かされるな」


「えへへ。褒めてる?」


「呆れてる」


「カイの『呆れてる』はだいたい褒めてるの裏返しだって、もう気づいてるよ」


「……お前といると本当に——」


「疲れる、でしょ。知ってる知ってる」


リーンが笑った。カイは溜息をついた。


しかしその溜息に苛立ちはなく、ただ暖かい諦めのようなものが混じっていた。


リーンはふと手を止めた。端末の画面を見つめている。


「ねえカイ」


「何だ」


「記憶がないって、不自由だと思う?」


「……そうだろうな。普通は」


「あたしね、最近思うの。忘れるって、身軽ってことじゃないかなって」


カイの眉がぴくりと動いた。


「重たい荷物を持ってないの。過去の失敗も、嫌な思い出も、何にもない。だから今あるものだけ見て走れる。それって自由じゃない?」


カイは黙った。


苛立ちが、胸の底で燻った。


忘れたくないものがある。母の手の温かさ。壁に書いた文字の感触。声だけの誰かとの「おはよう」。それらを忘れるのが「自由」だと?


「忘れるのが自由だとは思わない」


声が、少し硬くなった。自分でも気づいた。


リーンがカイの顔を見た。


「今の沈黙、怒ってる沈黙だ」


「怒ってない」


「怒ってるよ。でも、あたしに怒ってるんじゃない。何か別のものに——」


「黙れ」


リーンが口を閉じた。怯えたのではなかった。カイの沈黙の奥にあるものを、静かに受け止めているようだった。


「……ごめん。あたしが忘れてるだけで、忘れたくない人がいるよね。カイのお母さんとか」


カイは答えなかった。


リーンの言い方には独特の軽さがある。記憶喪失を悲劇ではなく、どこか「仕方のないこと」として受け入れている。その軽さが——カイの中の、忘れたくないものを抱えている部分を、逆撫でする。


でも同時に、その軽さに救われている自分がいることも——わかっていた。


カイはふと言った。


「うるさいな」


リーンは何も言っていなかった。


「何も言ってないよ」


「……いることがうるさい」


リーンが目を丸くした。それから、ゆっくりと笑った。


「それ、ひどいのに嬉しいのはなんでだろう」


カイは答えなかった。自分でもわからなかった。ただ、隣に人がいることの安心感を「うるさい」と表現するしかない自分の語彙の貧しさに、少しだけ腹が立った。


---


二十日目の夜。


カイはまた夢を見た。


四角い光。指を動かしている。声だけの誰かが隣にいる。


今夜は少し違った。声が聞こえた。


「これ、非効率じゃない?」


知らない声。でも懐かしい声。


「うん。ここのループ、もっと短くできる」


自分の声だ。自分の声なのに、自分ではない誰かの声。


「じゃあ直そう。締め切り明日だし」


「おはよう、じゃなくて、おやすみの時間だろ」


「あはは。おやすみ」


——「あはは」。


リーンと同じ笑い方だった。語尾の跳ね方。息の抜き方。声のトーンは違うのに、笑いの構造が同じだった。


目が覚めた。


天井の配管が見える。廃棄層の空気。錆と廃液の匂い。


ループ。締め切り。非効率。


知らない言葉だ。なのに意味がわかる。繰り返しの処理。期限。目的に対して手順が無駄であること。


プログラムを書いている夢。


プログラム?


知らない。知らないはずだ。


隣を見た。リーンが横になっている。目を閉じている。


音がしない。呼吸も、寝息も、寝返りも。


——だが唇が微かに動いている。


寝言だ。二度目だった。初日の夜に続いて。


今度は、わずかに聞こえた。


「……ごめん……まだ……見つけて……」


誰かに話している。眠っているのに。呼吸すら止まっているのに、唇だけが動いて、見えない誰かと会話している。


カイは聞いてしまった。聞いてしまったが——聞かなかったことにした。


リーンの秘密に触れたくないからではない。触れてしまったら、何かが変わる気がしたからだ。今の距離感が、壊れる気がしたからだ。


カイは目を閉じた。考えるのはやめた。今は計画に集中しろ。


---


二十一日目の朝。


点呼の後、リーンがカイのところに走ってきた。息を切らしている。走ってきたのに、足音がほとんどしなかった。


「カイ。端末、動いた」


「動いた?」


「昨夜、非常用バッテリーから電力を引いたら起動した。三十秒だけだったけど——見て、これ」


リーンが端末の画面を見せた。起動時にキャプチャされたらしいデータの断片が残っている。


文字列だ。ほとんど読めないが、カイの目が一つのフレーズを捉えた。


「地上接続口——第一層天蓋区画」


「これ」リーンが指で示した。「地上への出口の場所だと思う。第一層にある。天蓋区画っていう場所」


カイは道筋を展開した。


目的:第一層の天蓋区画から地上に出る。


金色の線が——走った。長く、遠く、霧に何度も消えながら、それでも伸びていく。


初めてだった。三年間、「地上に出る」の道筋は常に途中で途絶えていた。出口がどこかわからなかったから。


今、出口が見えた。情報が一つ加わっただけで、道が繋がった。


「……使える。この情報は使える」


「でしょ?」リーンが得意げに笑った。「あたしの端末、役に立つでしょ」


「お前の端末じゃない。拾い物だ」


「直したのはあたしだからあたしのだよ」


「……まあいい」


小さな勝利だった。地上への道に、初めて具体的な終点が見えた。


---


その夜。


リーンが端末を弄りながら、ぽつりと言った。


「ねえカイ」


「何だ」


「右手、見てくれる?」


リーンが右手を差し出した。


手のひらの中央に、小さな金属片があった。


「何だこれは」


「わからない。気づいたら持ってた」


薄い金属の破片。端末の基板と同じ材質に見える。表面に何か刻まれている。蛍光灯の光では読めない。


「いつから持ってた」


「覚えてない。でも最初からかも。ここに来た時から、ずっと握ってた気がする」


カイは金属片を光にかざした。


道筋を展開した。


目的:この金属片が何かを知る。


金色の線が——一瞬だけ走って、消えた。


霧ではない。消えた。まるで意図的に遮断されたかのように。


初めての感覚だった。道筋が「見えない」のではなく「見せてもらえない」。


カイの背筋に冷たいものが走った。


手が震えた。呼吸が浅くなった。指先が冷たくなった。


初めてだった。道筋が答えを出せない。答えを拒絶される。万能に見える力が、無力になる瞬間。


「カイ? 顔色悪いよ」


「……いや。明日、これをガルドに見せる」


「ガルドさんに? なんで?」


「ガルドなら知ってるかもしれない。上の層の技術に詳しい」


リーンは金属片を握り直した。小さな手の中に、小さな秘密が収まった。


カイは天井を見上げた。


道筋が変わり始めている。最初に描いた計画とは違う形に。リーンが加わってから、全てが加速している。


それが良いことなのか、悪いことなのか。


道筋は、まだ答えを出していない。


---


その夜。カイが眠りに落ちた後のこと。


リーンは目を開けた。


眠れない。


正確に言えば、眠ったのかどうかもわからない。目を閉じる。暗闇がある。暗闇の中に何もない。夢もない。記憶もない。時間の感覚すらぼやけて、気づいたら朝になっている。


それを「眠った」と呼んでいいのか、リーンにはわからなかった。


体を起こした。配管の裏の狭い空間。錆びた金属の匂い。遠くで廃液が流れる低い音。


隣で、カイが横になっている。


薄い寝息が聞こえる。規則正しいリズム。時々、眉が動く。唇が微かに動く。夢を見ているのだ。


夢。


リーンには、それがわからない。


カイは言った。四角い光の夢を見ると。声だけの誰かが隣にいると。毎朝「おはよう。今日もよろしく」と言い合う夢を。


目を閉じた先に世界がある。そこに誰かがいる。そこで何かが起きる。


リーンにはそれがない。


目を閉じると——何もない。真っ暗で、空っぽで、底がなくて、自分がどこにいるのかもわからなくなる。溶けて消えそうになる。自分という輪郭がぼやけて、暗闇と区別がつかなくなる。


みんなには道がある。カイには道が見える。


あたしだけ、最初から道がない。


それが、怖い。


自分が何者なのかわからない。名前は「リーン」。それだけ。それ以外の全てが空白。過去も、出自も、体が覚えている技術の由来も。


さっき、カイに言った。忘れるって、身軽ってことじゃないかって。


嘘だった。


いや、嘘じゃない。半分は本気だった。でも残りの半分は——怖さを笑い飛ばそうとしていた。


もし明日、目を閉じたまま戻ってこなかったら。この暗闇の中に溶けて消えてしまったら。誰が気づくのだろう。


カイの寝顔を見た。


眉間に、かすかなシワがある。起きている時は二本。今は一本。少しだけ安心した顔。


この人は、あたしがいなくなったら気づくだろうか。


たぶん——気づく。


理由はわからない。でもカイは毎朝、リーンの姿を確認してから動き出す。口では「疲れる」と言いながら、リーンが視界にいないと、ほんの一瞬だけ目が泳ぐ。


それを見るたびに、リーンの胸の中で何かが温かくなる。


ここにいていいんだ、と思える。


記憶がなくても。名前しかなくても。何者かわからなくても。この人の隣にいる間は、暗闘に溶けないでいられる。


リーンは膝を抱えた。カイの寝息を聞きながら、朝が来るのを待った。


暗闇の中で、自分の輪郭を確かめるように。ここにいる。ここにいていい。


そう思えるだけで、夜を越えられる。


明日もまた、笑おう。怖くても、笑おう。笑ってれば大丈夫だから。


——本当に大丈夫かどうかは、わからないけど。


---


**第2話「なんとなくの少女」了**



次回、第3話「道を組む者たち」

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