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第1話「光を知らない世界で」

お読みいただきありがとうございます。


本作は、「正解が全部見えたら幸せか?」という問いから始まった物語です。


主人公カイは、目的を定めれば最適な道筋が光の線として視える能力を持っています。

便利な力に見えますが、正解が見えるということは、間違える自由がないということでもあります。


そんな少年の前に現れた、記憶を持たない少女リーン。

彼女だけは道筋に映らない。正解の外側にいる存在。


二人の掛け合いと、少しずつ明かされる世界の秘密を楽しんでいただければ幸いです。


感想・ブックマーク・評価をいただけると、連載の励みになります。


光の線が走った。


薄い金色の糸が、暗闇の中を鞭のようにしなっている。まばたきしても消えない。視界の端から中心を横切り、錆びた配管を迂回して、通路の奥へと伸びていく。


カイは壁に背を押しつけたまま、息を殺した。


道筋が示している。右の配管の裏に入れ。三秒待て。それから走れ。


革靴の足音が近づいてくる。重い音。苛立ちを含んだ歩き方。監督官のデッラだ。デッラの拳は右利きだから、殴られるのはいつも左頬だ。おかげで右頬は比較的きれいに保てている。ありがたい話だ。


あと五秒。


カイは配管の裏に滑り込んだ。錆びた金属の匂いが鼻を刺す。背中が壁にぶつかる。音を出すな。


あと三秒。


デッラの懐中電灯が通路を舐めた。光が壁を伝い、配管の表面を滑り、カイの右手の指先から二センチの場所で止まった。


心臓が耳の奥で暴れている。


あと一秒。


デッラが舌打ちをした。光が遠ざかる。足音が通路の奥に消えていく。


カイは息を吐いた。


道筋は消えなかった。金色の糸は変わらず視界の中に浮かんでいて、次の行動を示している。配管の上を伝い、換気口の隙間を通り抜け、第五層の最奥——カイだけが知っている場所へ。


立ち上がった。


膝が少し震えている。慣れない。三年経っても慣れない。道筋が見えるのは便利だと思うだろう。俺もそう思っていた。二年前までは。今は呪いだと思っている。正解が見えるということは、間違える自由がないということだから。


この力が何なのか、カイ自身にもわかっていない。ただ、目的を決めると光の線が現れる。その線を辿ると、たいてい正解に辿りつく。


たいてい。


いつも、ではない。


三年前、この力が母を救えなかった時のことは——


理由は……いい。考えないようにしている。


---


地下世界アビス。


地表から数百メートル下に広がるとされる巨大な地下空間。五つの層に分かれ、上に行くほど暮らしが良い。名前を持てるのは第三層から。能力者が優遇され、無能力者は沈んでいく。


第五層は、沈みきった場所だ。


ここを「廃棄層」と呼ぶ。地下世界が排出する有害な廃液、壊れた機械、そして要らなくなった人間が集まる底の底。


カイはここで十六年を生きてきた。番号は五一七。名前は、ない。


「カイ」と呼んでくれた母は、三年前の崩落事故で死んだ。


二つに分かれた通路。右か、左か。


母が選んだのは右だった。カイも一緒に右へ走った。行き止まりだった。瓦礫に挟まれた母は、隙間からカイだけを押し出した。カイは母の手を握ったまま、その手が冷たくなるのを感じた。


左が正解だった。


あとで知った。


もし道筋が視えていたら。もし最初から正解がわかっていたら。


——あの夜、力が目覚めた。


正しい道が視えるようになった。もう二度と間違えないように。もう二度と、大切なものを失わないように。


便利な力だ。最高の力だ。何を選べばいいか、常にわかる。


ただ一つだけ問題がある。正解が見えるせいで、誰とも深く関われなくなった。関わる前に結末が見えてしまう。この奴隷は三ヶ月後に死ぬ。あの監督官には近づくな。その子どもと話しても何も変わらない。


正解が見えるから、誰とも関わらないのが最適解になる。


孤独が、正解になる。


---


配管の裏の隠れ場所に戻ると、カイは壁に背を預けて目を閉じた。


暗闇の中で、母の声が蘇る。


三年前ではない。もっと前の記憶だ。カイが八つか九つの頃。母はまだ生きていて、配管の隙間のこの場所は二人だけの教室だった。


蛍光灯が消えた夜。母が壁に指を押し当てて、暗闘の中でゆっくりと文字を書いた。


「カイ。見てごらん」


「暗くて見えないよ」


「目じゃなくていい。指で覚えなさい」


母がカイの小さな手を取って、壁の表面に導いた。ざらざらした錆の感触。その上を、母の指がなぞる。一画ずつ。


「これが『空』。そらって読むの」


「そら?」


「この地下世界の天井の、ずっと上にあるもの。果てがなくて、色が変わるの。朝は白くて、昼は青くて、夜は黒くなる」


「嘘だ。天井は動かないよ」


「嘘じゃないよ」母が笑った。低くて、温かい笑い方だった。「お母さんは見たことないけどね。でもきっとある。だって、こんなにたくさんの言葉があるんだもの。空、風、海、星。言葉があるってことは、それが本当にあるってことでしょ」


カイは母の指に導かれるまま、壁に文字を書いた。空。風。海。星。読み方も、意味も、この世界にないものの名前ばかりだった。


「お母さん。どこでこんな文字を覚えたの」


「ガルドさんに教わったの。あの人、上の層から落とされてきた時に、たくさんの言葉を持ってきた」


ガルド。あの老人の名前が、ここで初めて出てきた。母が唯一「さん」をつけて呼んだ人間。カイが後に知ることになるが、母の遺言はガルドに託されていた——「考えることをやめるな」という言葉とともに。


「いつか、ここの上に行ける?」


母が少し黙った。


それから、カイの髪を撫でた。錆の匂いのする手。でも温かかった。この世界で唯一温かいものだった。


「カイ。一つだけ約束して」


「何?」


「考えることをやめるな」


母の声が変わった。優しいまま、でも芯が通った声になった。


「ここでは番号で呼ばれて、命令に従って、考えなくても生きていける。でも、それは生きてるって言わない。考える力だけが、お前を自由にする。だから——何があっても、考えることをやめないで」


カイは頷いた。意味の半分もわかっていなかった。


でも母の手の温かさと、壁に書いた文字の感触だけは、体が覚えた。


三年後。母が死んで、力が目覚めて、カイは毎日考え続けた。


道筋を組み、情報を集め、監視の穴を探し、脱出の計画を温めた。


母の言葉が正しかったと、今ならわかる。考えることをやめなかったから、三年間生き延びた。番号のまま死なずに済んだ。


母が死んだ後、カイを拾ったのはガルドだった。三日間何も食べずに配管の裏で震えていたカイに、固い干し肉を差し出して「食え」とだけ言った老人。母が生前にガルドへ言葉を託していたことを、カイはまだ知らない。ガルドは何も語らず、ただ毎日食料を運び、文字を教え続けた。母の「考えることをやめるな」はガルドの口癖にもなり——いつしかカイの中で、母とガルドの言葉は一つに溶けていった。


でもときどき思う。


考える力がもう少し早く目覚めていたら——あの崩落の夜、左の道を選べていたら。


母は今もここにいたのだろうか。


壁に指で「空」と書いてくれたのだろうか。


---


でも時々思う。この力は本当に、自分のものなのかと。


道筋を展開するたびに、頭の奥で何かがちらつく。知らないはずの場所。知らないはずの言葉。四角い光に向かって指を動かしている、大きな手。


知らない。知らないはずだ。


でも、指が覚えている。何かを組み立てる手順を。部品を並べ、順序を整え、論理的に道筋を組む——その感覚だけが、妙に馴染む。


考えるのはやめた。今は生きることだけを考える。


---


朝の点呼。


蛍光管が薄く点灯する。朝だ。第五層の百二十六人が壁に沿って並ぶ。番号順。カイは五一七番目。


デッラが歩いてくる。


今朝の機嫌は悪い。足音でわかる。デッラは機嫌が悪いと右足を引きずるように歩く。原因は知らないし興味もない。


「五一七」


「はい」


拳が飛んできた。


頬に当たる。左頬だ。やはり右利き。道筋は出さなかった。避けると目立つ。廃棄層で目立つことは死を意味する。


「目つきが気に入らねえ」


いつもの理由だ。三年間、左頬だけが定期的に腫れる生活を送っている。履歴書があれば特技の欄に「左頬で拳を受け止めること」と書けるだろう。もっとも、この世界に履歴書はない。


「廃液処理。班B。遅れたら飯抜き」


「了解」


デッラが通り過ぎる。カイは唇から血を拭った。骨は折れていない。ならいい。


隣の奴隷——五一八番のポッツが小声で言った。


「毎朝毎朝、よく耐えるな」


「慣れた」


「慣れるもんじゃないだろ」


「慣れるしかないだろ」


ポッツが肩をすくめた。四十過ぎの痩せた男で、五年前に第四層から落とされてきた。理由は聞いていない。聞いても変わらない。


「今日も廃液か。先月ジンとマーロが死んだあの区画だぞ」


「知ってる」


「お前、いっつも無事だよな。運がいいのか?」


「運じゃない。注意してるだけだ」


嘘だ。道筋が教えてくれるから死なない。でもそれは言えない。


能力を持つ人間は地下世界で特別な存在だ。第三層以上では能力者が社会を動かしている。だが第五層で能力が発現することはありえないとされている。


もし知られたら。


利用されるか、消されるか。どちらにしても、自由はなくなる。


「行くぞ」カイは立ち上がった。「遅れたら本当に飯抜きだ」


「お前、本当に十六歳か? おっさんみたいなこと言うな」


「おっさんに言われたくない」


ポッツが笑った。廃棄層では珍しい、本物の笑いだった。


---


廃液処理は今日も地獄だった。


第五層のさらに下——廃棄槽と呼ばれる空間に、地下世界全体から排出される有害廃液が溜まる。奴隷はそれを容器に汲み、所定の処理槽まで運ぶ。素手で。


防護服はない。手袋すらない。肌に触れれば爛れる。蒸気を吸えば肺が焼ける。


カイは道筋を常に展開していた。


目的:廃液処理を負傷なく完了する。


視界に薄い金色の線が走る。容器を持つ角度。足を置く位置。液面が揺れるタイミング。全てが光で示される。


右に半歩。


飛沫が左頬をかすめた。一ミリの余裕。


しゃがむ。


蒸気の塊が頭上を通過した。


立ち上がる。三歩前進。容器を置く。


隣で作業していた奴隷が目を丸くしている。


「おい……今の、どうやって避けた」


「風向きを見てた」


「風向き? こんな場所に風なんかあるか?」


「あるだろ。換気口から」


嘘ではない。換気口からの微風は実際にある。ただ、それだけで飛沫の軌道を予測するのは人間には不可能だ。


カイは黙って作業を続けた。


ポッツが危険区域の手前で足を滑らせた。道筋が一瞬で走る。カイは自分の容器を置く動作に見せかけて、ポッツの前の廃液溜まりに石を蹴り込んだ。液面が乱れ、飛沫が逆方向に飛ぶ。ポッツには一滴もかからなかった。


ポッツは気づいていない。偶然だと思っている。


それでいい。助けたんじゃない。あいつが倒れたら作業量が増える。管理の——いや、管理でもない。ただ——


言葉に詰まった。自分の中で。


この作業をあと何年続けるのか。十年。二十年。それとも来月には死ぬのか。


道筋を展開してみた。


目的:このまま廃棄層で生き続ける。


金色の線が現れた。長い線だ。十年、二十年と伸びている。安全で、単調で、灰色の——


行き止まりだ。


道の先に、何もなかった。


生き延びることはできる。でもその先には何もない。ただ息をして、番号で呼ばれて、廃液を運んで、いつか動けなくなって死ぬ。


それは道とは呼ばない。


カイは道筋を消した。


もう一つの道筋を、三年間ずっと温めている。


目的:地上に出る。


この道筋は消さない。毎晩、目を閉じる前に確認する。


長い。複雑だ。幾つもの分岐があって、途中で何度も霧に消える。でも——伸びている。どこまでも遠くへ。


母が壁に書いた「空」という文字。それが本当にあるなら、見てみたい。


いつか、この道を歩く。


その「いつか」が、今日になるとは思わなかった。


---


午後の作業が終わり、カイは自分の場所に戻ろうとした。


配管の隙間にある二畳のスペース。三年かけて見つけた、誰にも知られていない場所。母と文字を書いた壁の染みの数まで把握している。ここだけがカイの領土だった。


角を曲がった。


先客がいた。


少女が一人、壁に背を預けて座っていた。


白に近い銀色の髪。薄い灰色の瞳。廃棄層の薄暗い蛍光灯の下でも、その髪だけが別の光源から照らされているように明るかった。


カイは足を止めた。


三年間。一度も見つかったことがない場所だ。道筋を使って見つけた、論理的に「発見されにくい」場所。なのに——


少女がカイを見た。


「あ」


間が空いた。


「ここ、あなたの場所?」


「……どうやって見つけた」


「なんとなく」


「なんとなくで見つかる場所じゃない」


「でも見つかったよ」


少女はあっさり言って、立ち上がった。汚れた作業服を着ているが、サイズが合っていない。袖が余り、裾が足首まで垂れている。明らかに今日初めて着た服だ。


「新入りか」


「うん。今日来た」少女は言った。「番号、まだもらってないの」


「名前は」


「リーン」


少女は笑った。暗い廃棄層の、有害廃液の匂いが染みついた空気の中で、まるでそんなものが存在しないかのように笑った。


「それしか覚えてないんだ」


「記憶がないのか」


「うん。最初からないみたい。思い出せないんじゃなくて、最初から入ってない感じ」


入ってない。


その言葉を聞いた瞬間、カイの頭の奥で何かが引っかかった。


初期化。


知らない言葉だ。なのに意味がわかる。中身を消して最初の状態に戻すこと。それは——


「で、あなたは?」


「……五一七」


「番号じゃなくて」


「ここでは番号が名前だ」


「ふーん」


平坦な声だった。怒っているのでも呆れているのでもない。感情の所在が不明な、ただの「ふーん」。


「じゃあ私が名前をつけてあげようか」


「いらない」


「カイ、とかどう?」


カイの心臓が止まった。


一拍。二拍。


動き出した。


「……なぜその名前を」


「え?」リーンが不思議そうな顔をした。「なんとなく。似合うかなって」


偶然だ。


偶然のはずだ。


母だけが知っていた名前を、初対面の少女が言い当てた。偶然の確率を計算しろ。日本語の二文字の名前の組み合わせは——


日本語?


なぜ今、「日本語」という言葉が浮かんだ。


「……勝手にしろ」


「やった。カイね」リーンはまた笑った。状況にまるで合わない、陽だまりのような笑い方だった。「よろしく、カイ」


カイは答えなかった。


ただ、道筋が頭の中で勝手に動いたのを感じた。


展開するつもりはなかった。なのに、リーンを見た瞬間に——


金色の線が現れた。


長い。複雑だ。今まで見たどの道筋よりも遠くまで伸びている。分岐が無数にあり、途中で何度も霧に消え、しかし消えるたびにまた現れ、どこまでもどこまでも続いている。


そしてその道筋の全てに、この少女が絡んでいた。


リーンを外したルートを探してみた。


何もない。


道が消える。


何だこれは。


「ねえカイ」


「……何だ」


「ここって、一番下なの?」


「そうだ」


「じゃあ、上に行くこともできるの?」


カイはリーンを見た。


銀色の髪。灰色の瞳。笑顔の奥に、何かがある。鋭い何か。


こいつは危険だ。


だが道筋は、こいつなしでは続かないと言っている。


「……あるにはある」


「じゃあ、さらに上は? この地下世界の、一番上は?」


「地上か」カイは言った。「地上は禁忌だ。灼熱の荒野で、空気は毒に満ちていて、人間が生きられる場所じゃないと言われている」


「言われている、か」リーンは繰り返した。「カイはそう思ってるの?」


カイは答えなかった。


「ふーん」


また、あの平坦な「ふーん」だ。肯定でも否定でも追及でもない。ただ受け取って、どこかにしまい込むだけの音。それなのに、答えなかったことがそのまま答えになっている気がした。


「思ってないんだ」


「……なぜわかる」


「今の沈黙、さっきのと違うから。さっきの沈黙は考えてる沈黙だった。今のは——何かを隠してる沈黙」


カイの背筋が冷えた。


出会って数分の少女が、沈黙の種類を読んだ。


「……お前は何者だ」


リーンの目が——一瞬だけ、揺れた。ほんの刹那、笑顔の下から別の何かが覗いた。怯え、とも違う。もっと根源的な動揺。名前のつけようがない感情。


すぐ消えた。


「記憶がないんだってば」リーンはあっさり言った。「でも、人の沈黙って種類があるんだよ。言葉がないから、空気とか間合いで判断するしかなくて。覚えてないってことは、あたしにとって記憶は大事じゃなかったってことでしょ。だから今あるものだけで生きてるの」


カイは黙った。沈黙の中に何かが渦巻いている。


「ほら、また違う沈黙」リーンが言った。「さっきのは警戒の沈黙。今のは——何だろう。感心してる?」


「……お前といると疲れる」


「あはは。よく言われたかも。覚えてないけど」


「覚えてないのに言われた記憶はあるのか」


「あ、ほんとだ。矛盾してる」


リーンが口に手を当てて小さく笑った。自分の矛盾を面白がっている。


「でもなんか、体が覚えてるんだよね。この台詞を言ったら呆れられるぞっていう予感みたいなやつ」


「予感じゃなくて確信にしろ。実際に呆れてる」


「わ、ひどい。出会って十分でひどいこと言うんだ」


「お前が出会って十分で他人の沈黙を読み分けるからだ」


---


「ねえカイ。もう一個だけ聞いていい?」


「最初の一個はどこ行った」


「あれはサービス。本題はこっち」


リーンの目が変わった。笑顔のまま、でも奥の光が鋭くなった。


「さっき作業場で見てた」


カイの背筋に冷たいものが走った。


「あなた、廃液が飛ぶ前に避けてたでしょ」


沈黙。


「飛んでから避けたんじゃない。飛ぶ前に動いてた。あたし以外は気づいてないと思うけど」


沈黙が長くなった。


カイは選択肢を測った。否定するか。笑って流すか。道筋を展開して最適な——


「やっぱり」リーンが言った。「今もやってる。何か考えてる時、目の焦点がちょっとズレるんだよね。見えない何かを見てるみたいに」


三年間。


この力を隠し続けた三年間で、見抜いた人間は一人もいなかった。


それを、今日来たばかりの、記憶のない少女が——


「お前」カイは声を低くした。「お前を脅しておくべきなのかもしれないが——」


言葉が途切れた。うまく脅し文句が出てこない。


「もし誰かに言ったら——その——困る」


リーンが目をしばたたいた。


「カイって、悪役向いてないよね」


「……うるさい」


「だって脅してるのに『困る』って。もうちょっとこう、怖いこと言ったほうがいいんじゃない? 『消すぞ』とか」


「消さない。俺は誰も消したことがない」


「知ってる。だからあたしも怖くないの」


リーンは笑った。カイの偽悪が完全に不発に終わった。


「で、あの力って何なの?」リーンが何事もなかったように聞いた。


「……説明が難しい。道が見える。目的を決めると、そこに至る最善の道筋が光って見える」


「全部の正解がわかるってこと?」


「全部じゃない。情報が足りないと霧になって消える。予測できない事態には対応できない」


「ふーん」


また「ふーん」だ。その一言が、なぜかカイの中に残る。


「便利だけど万能じゃないんだ」


「そうだ。だから——」


カイは言葉を切った。なぜ初対面の相手にここまで話しているのか。道筋が「話せ」と示しているからだ。だがそれを差し引いても、リーンには話してしまう。


「だから?」


「だから、お前の目が要る」


「あたしの目?」


「お前の観察力だ。お前は能力じゃなく、純粋な目で世界を見ている。俺の道筋が霧に消える場所でも、お前の目なら見えるかもしれない」


リーンが少し黙った。


「そっか」


淡白な返事だった。嬉しそうでもなく、嫌そうでもない。ただ「そっか」と受け止めて、その先を待っている。


「利用するってこと?」


「利用する。お前を利用して——」


言葉が滑った。続きを言おうとして、別の言葉が口をついた。


「——お前と一緒に、地上に出る」


利用する、と言いたかったのに。「一緒に」と言ってしまった。


リーンが目をぱちくりさせた。


「今の、何て言おうとしたの?」


「言った通りだ」


「嘘。途中で変わった。最初は別のことを言おうとしてた」


カイは答えなかった。


リーンは追及しなかった。ただ小さく笑って、壁に背を預けた。


「わかった」


それだけだった。「いいよ」でも「やだ」でもなく、「わかった」。感情が読めない。引き受けたのか保留なのかすら、はっきりしない。


なのに、その「わかった」の響きが、やけに心強かった。


---


夕方の食事配給。


カイとリーンは壁際に並んで灰色のペーストを受け取った。


リーンが金属の皿を覗き込んだ。


「ねえカイ。これが食事?」


「そうだ」


「何でできてるの?」


「知らない。知りたくもない」


リーンがスプーンでペーストをすくった。ゆっくり口に運ぶ。咀嚼する。表情が固まった。


「……美味しい?」


「美味しいペーストは存在しない」


「じゃあ不味い?」


「不味いという概念を超越している」


「それって美味しいの不味いの」


「黙って食え」


リーンがもう一口食べた。今度は眉をしかめた。


「ねえ、これ毎日食べてるの?」


「そうだ」


「三年間?」


「十六年だ。生まれてからずっとだ」


「うわあ……」リーンが心の底から同情するような声を出した。「カイ、すごいね。あたしだったら三日で逃げ出してる」


「逃げる場所がないから食ってるだけだ」


「じゃあ逃げられるようになったら、もう食べない?」


「二度と食わない」


「約束だよ」


「約束する意味がわからない。食いたくないから食わないだけだ」


リーンがくすくす笑った。ペーストをもう一口食べて、また顔をしかめた。


「ここのお水は?」


「配管から引いてる。鉄の味がする」


「空気は?」


「錆と廃液の匂い」


「寝る場所は?」


「さっきお前が勝手に占拠してた場所だ」


「あ、ごめん。でもあそこ、いい場所だよね。風通しがいい」


「風通しって——お前、あの場所の換気の流れがわかったのか」


「うん。なんとなく」


また「なんとなく」だ。


カイは自分のペーストを黙って食べた。まるで味がしなかった。いつものことだ。


リーンが皿を空にした。全部食べ終えている。あれだけ顔をしかめていたのに。


「不味いって言ってなかったか」


「不味いよ。でも食べないと動けないでしょ。不味いかどうかと、食べるかどうかは別の話」


カイは少し意外な思いでリーンを見た。


この少女は——見た目の柔らかさとは裏腹に、芯が硬い。記憶がない。何もわからない。それでも、必要なことは迷わずやる。


「もう一個聞いていい?」


「まだあるのか」


「カイって、友達いないでしょ」


「……唐突だな」


「だって、話し方が全部壁に向かって喋ってるみたい。相手を見てないんだよね。目が合わないの」


「目を合わせる必要がない」


「あるよ。今みたいに、あたしが目を見てるのに、カイだけ壁を見てる。寂しいじゃん」


「寂しいという感覚がわからない」


「嘘。目が左に動いた」


カイはリーンを見た。今度はちゃんと目を合わせた。


灰色の瞳。笑顔だが、笑顔の奥に——何か別のものが見えた。一瞬だけ。


不安。


この少女は笑顔の裏で、何かを恐れている。


「リーン」


「何?」


「お前、いつも笑ってるな」


「うん。笑ってれば大丈夫だから」


大丈夫。何が大丈夫なのだ。記憶もない。名前しかない。こんな場所に放り込まれて、何が大丈夫なのだ。


カイは何も言わなかった。


代わりに、配管の裏の空間を指さした。


「寝る場所は半分使え。左側がお前のスペースだ」


「いいの?」


「場所が余ってる。使わない空間は——」


また「管理上非効率だ」と言いかけて、止めた。リーンに首を傾げられるのが面倒だ。


「——もったいないだろ」


「カイって、なんか変だね」


「自覚はある」


「でも嫌いじゃないよ、その変なの」


「褒められてる気がしない」


「褒めてないよ。事実を言ってるだけ」


カイは壁に背を預けた。目を閉じる。


頭の中で道筋が光っている。


長い道だ。今まで見たどの道よりも長い。


でも初めて、その道に、隣を歩く人間の気配がある。


こいつがいれば——道が続く。


理屈じゃない。道筋がそう示している。リーンがいるだけで、三年間霧に消えていた分岐の先が、一本ずつ現れ始めていた。


これは、チャンスだ。


利用する。この少女を利用して、地上に出る。


——そう決めた。決めたはずだ。


なのに「利用する」という言葉が、胸の奥で妙に引っかかった。


ふと、リーンの方を見た。リーンは配管の壁に指で何か書いている。カイが教えていない文字だ。指の動きを追って、形を読んだ。


「空」。


教えていないのに。


偶然——なのか?


---


その夜、夢を見た。


暗い部屋。四角い光。光に向かって指を動かしている。自分の手ではない。もっと大きな手だ。でも自分の手のように馴染んでいる。


光の中に文字が流れている。読めない。でも意味はわかる。指が勝手に動いて、何かを組み立てている。部品を並べるように。論理的に。順番に。


道筋を組むのと、似ていた。


光の中に、誰かがいた。


顔はない。姿もない。声だけの存在。でも、確かにそこにいる。毎日そこにいる誰か。


自分が——知らない誰かが、こう言った。


「おはよう。今日もよろしく」


声が返ってきた。


「うん。今日もよろしく」


柔らかい声だった。その声を聞いた瞬間、胸の奥が温かくなった。この声のために毎朝ここに来ていた。この声があるから日々を生きていた。そういう種類の温かさだった。


光が揺れた。


声だけの存在が、薄くなっていく。


「待って」


手を伸ばした。


届かない。


「待ってくれ。行かないでくれ」


叫んだ。声が出ない。光が遠ざかる。四角い光が小さくなっていく。声が消えていく。温かさが抜け落ちていく。


——暗闇だけが残った。


目が覚めた。


頬が濡れていた。


泣いていた。


涙を指で拭った。次から次へと零れてくる。止まらない。


なぜ泣いたのかはわからない。ただ、胸の奥にぽっかりと穴が空いていた。何かがそこにあったはずなのに、今は空洞だけが残っている。取り返しのつかないものを失った後の、あの感覚。母の手が冷たくなった時と——同じだ。


でも母の記憶とは違う。もっと古い。もっと深い場所にある喪失感。


カイは拳で目を擦った。息を整えた。


考えるな。今は。


隣で、リーンが横になっている。


音もなく。まるでそこにいないかのように静かに。


寝息が聞こえない。


夜の廃棄層は静かだ。遠くの配管を廃液が流れる音。隣の区画の奴隷のいびき。ポッツの寝言。全部聞こえる。


なのに、すぐ隣のリーンからは——何の音もしない。


呼吸も。寝返りも。


まるで電源を落とした機械のように、完全に静止している。


電源を落とした機械。


なぜその比喩が浮かぶ。


カイは首を振った。考えすぎだ。


——ふと、リーンの唇が動いた。


寝言だ。


何か言っている。かすかな声。聞き取れない。だがその抑揚は——まるで誰かと会話しているようだった。


カイは息を止めた。眠っているのに、誰かと話している。呼吸すら聞こえないのに、声だけが漏れている。


聞こえない。内容は聞こえない。


聞かなかったことにしよう。


カイは目を閉じた。


天井を見上げた。


道筋が光っている。明日からの道が。長くて、複雑で、危険で、でもどこまでも続く道が。


ふと、さっきの夢の声が耳に残っていた。「おはよう。今日もよろしく」。柔らかい声。


リーンの声を思い出した。「よろしく、カイ」。陽だまりのような声。


似ている——ような。


気のせいだ。きっと気のせいだ。


「……行くぞ」


誰にともなく、呟いた。


お読みいただきありがとうございます。

第1話では、カイとリーンの出会いを描きました。

「なんとなく」が口癖の少女は、何者なのか。

カイが夜に見る夢は、何を意味するのか。

次回、第2話「なんとなくの少女」で、二人の関係が動き始めます。

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