第2章『スラム街の待ち焦がれ人』
貴方の視線が身体を貫く。
貴方の言葉が心を震わせる。
貴方の存在が、私の生きる意味。
『早く貴方に会いたいです』
バニラ・クリムは飢えていた。
空腹を覚えている、という意味ではない。
心だ。
心にどうしようもない渇きが広がっているのだ。
愛しき人と離れて、741時間36分17秒が経過してしまっている。
双子の妹が用意してくれた秘蔵の品々では埋め難き心の飢えが全身を蝕んでいた。
元よりどれだけの時間が掛かるかははっきりと予測が立てられずにいたのだ。
それだけ、彼に託された任務は困難を極めるものなのだ。
彼の実力であれば、その安否を疑うことすら烏滸がましいのだが、向かった場所が場所なだけに心配は尽きぬのである。
肌身離さずにいる比翼の燈籠と呼ばれる古代遺物が、その内に有する青白い炎が揺らめき、彼が持つ片割れの方角を指し示している。
その方角が時折その向きを変えているので、
――移動されている、ということですわね……
万が一ということもあるが、そんな可能性は頭を過ぎるだけで悪寒を覚えてしまうので、意識的に除外する。
それに、灯火は徐々にだがその大きさを膨らませているのである。
距離が近くなることで生じる現象に、彼がこちらへ向かっていることを伝えてくれているのである。
だが、その知らせが却ってもどかしさを増長させている。
もう少しの辛抱だ、と何度も繰り返してきた言葉を改めて反芻する。
いや、どうせならこちらから迎えに行くべきではなかろうか。
こちらも何度考えたか分からないことを思い浮かべては、その誘惑をどうにか振り払う。
――この吹雪の中、街道に出るのは自殺行為ですわね……
滞在している宿酒場の一室から外へ視線を向けると、自身の髪色を彷彿とさせる純白が、しかし激しい風に流され、景色を染め上げて全く先が見通せない状況となっていた。
かれこれ一週間近く吹き続けている豪雪を前にしては、滾る衝動も瞬く間に冷静を取り戻してしまう。
ならばと、冷えた頭でどうにか出来ないかと考えを巡らせてみる。
北領で主流の移動手段であるギガント・レインディアに曳かせた大型橇による定期便ではどうだろうか。
向こうとこちらのルートがズレていたらすれ違いになって余計な手間になってしまいかねない。
――人目を避けて街道を使われない可能性も高いですわね……
その他にも何か手はないかと思案するが、悉く冷静な自身の思考によって却下の判定が下される。
「どうしようも、ありませんのね……」
この地に留まり、彼の到着を待つことが肝要である。
頭では理解していても、この身を蝕む空虚さにバニラの心は憔悴していくばかりであった。
◆
一週間後。
――あぁ! 遂に! 遂にこの時が来ましたわ!!
心の疼きが強まる日々を耐え抜き、その瞬間が訪れたのである。
目を覚ました直後に確認した魔道具の灯りが、容器一杯にまで膨れ上がり、片割れの燈籠が間近に迫っていることを告げていた。
バニラは逸る気持ちを抑えながら、持ちうる最大速度で身支度を整えていく。
――あの方に不格好な姿は見せられませんもの――!
素早く身嗜みを整えると、部屋に備え付けられていた姿見の前に立つ。
「完ッ璧――ですわ!」
敬愛する人の前に立つ準備は整った。
そう確認したやいなや、バニラは部屋を飛び出す。
扉が軋み、木片が飛び散ったように見えたが、そんなものは些事である。
階段を駆け下りるのももどかしく、踊り場まで一息に飛び降り、華麗に反転――勢いを殺さずに再度の跳躍で階下に降り立つ。
「ど、どうしたんだい!?」
世話になっている女店主が驚きの声を上げるが、それも背後に置き去りに――しては、流石に無礼であったので、
「出掛けてきますの!!」
最低限の言葉を残して、外に飛び出した。
長らく続いていた吹雪は止み、快晴――と言えど、世界樹の枝葉が天蓋となり空が覆われているため、空の様子は見通せないが、とにかく雲一つない上空に心は更に跳ね上がる。
まるでこの瞬間を天も祝福しているかのような錯覚を覚える。
既に夜明けの時間なのだが、大陸の北東に根差した領根が形成する山脈と世界樹そのもののせいで北領の日照時間はごく僅かである。
そんな明けゆく薄闇の中、一陣の風となってバニラは駆け抜けた。
地に蹴る足が、風を切る腕が、脈打つ鼓動が、全身を前へ前へと弾いていく。
肌を撫でる寒風が体温を奪っていくが、内から湧き上がる昂りが熱を間断なく生み続ける。
道行く人々が何事かと視線を送ってくるが、気に留める余裕などこちらにはない。
燈籠が指し示す方角へと最短距離で駆け抜ける。
大通りを、民家の屋根を、路地裏を、と脇目も振らずに走り抜けて、
「――――!!」
四つ角に差し掛かったところで全身に衝撃が走る。
身体はバランスを崩して、勢いのまま前方へと投げ飛ばされる。
どうにか受け身を取り、地面に叩きつけられるを回避するが、全身に乗ったスピードのせいか、着地による制動は効かず、路面を二転三転と転がる羽目になってしまう。
――折角整えた身嗜みが――!
このままでは敬愛する人に乱れた服装を見せてしまうことになる。
だが、いち早く会いに行きたい現状では、土埃を払い身嗜みを整え直す時間すら煩わしく感じてしまい、
「どこ見て歩いてますの!!」
原因は自分にあるにも関わらず、ぶつかった相手に対して騎士らしからぬ罵声を浴びせてしまった。
◆
衝動的に発してしまった言葉が、己の血の気を引かせていくのにそう時間は掛からなかった。
――やってしまいましたわ……
気が急いていたとはいえ、とても騎士の身らしからぬ言動をしてしまったと猛省する。
直ちにぶつかった相手に謝罪しようとしたが、
「ぶつかってきておいて、なんだその言い草はぁ!?」
「も、申し訳ないですわ……急いでいたもので」
「今更謝ってもおせぇんだよ!!」
面長で細身の男は既に怒髪天を衝く勢いで、こちらを鋭く睨み付けてくる。
謝罪は受け取ってはもらえなさそうだった。
「おいおい、どうかしたのかよ?」
「なんだぁ、この女は?」
怒り狂う男の背後からゾロゾロと人がやってくる。
皆が皆、身体のどこかしらに入れ墨や生傷が見え隠れしており、身なりからしてまともそうな雰囲気ではなかった。
――迂闊でしたわ!
ガラの悪い男達に詰め寄られて、今自分がどこに滞在していたのかを思い出す。
北領のその殆どを支配下におくモスタール帝国。
その南東に位置するここ、都市国家ノース・ダストは、北領における流れ者やはみ出し者が行き着く場所――つまりはスラム街を有することで知られている。
目の前の男達もその吹き溜まりで生活する輩ということだろう。
急いでいる時に厄介な連中に目を付けられてしまったと、辟易してしまう。
だが、この程度の者達を追い払うぐらい、従騎士である自分にとっては朝飯前である。
あまり目立つようなことはしたくはないが、自分の不注意で招いた事態だ。
責任はこちらにあることも重々承知しているが、先を急がせてもらうためにも、手早く力で解決してしまおう。
腰に帯びた騎士剣へと手を伸ばし――しかし、その手は目的の物を掴むことなく空を切る。
「あら……?」
気の抜けた声が自分の喉から漏れてしまう。
自身の相棒ともなる得物があるべき場所になかった。
おかしい、と思いつつも先程までの自分の行動を思い返し、それを宿酒場の部屋に置いてきていることに思い至った。
――迂闊でしたわーーーー!!!
あまりの失態に眩暈を覚えるが、膝を付いている場合ではない。
どうにかこの状況を切り抜けねばならない。
体術の心得はあるが、流石に剣術程ではなく、今なお増え続けるならず者達を追い払うには、体格差や人数差の観点から心許ない。
この状況では悠長に魔法の詠唱をしている余裕などなく、瞬く間に男達に捕らえられてしまうだろう。
こちらの不利を察してか、男達が下卑た笑みを浮かべながら間合いを詰めてくる。
後ずさり、どうにか打開の策を講じようとするが、背中が硬い壁に触れた瞬間に袋小路へ追い詰められていたことを悟る。
――仕方ありませんわね……
男達がいやらしい笑みを浮かべながら、まるで狩りをする肉食獣の如く、じりじりと間合いを詰めてくる。
本来であれば制御が不慣れで使いたくはないが、打開策はこれしかないだろうと腹を括る。
意識を集中させ、
「あー……取り込み中で悪いんだが」
男達がこちらへと飛び掛かろうとし、こちらがそれに合わせて迎撃しようとしたところで、人垣の向こうから気怠そうな声が投げ掛けられた。
視線をそちらに向けると、精悍な顔立ちに無精髭を生やした男性が面倒臭そうに視線を細めて立っていた。
「あぁん? なんだぁ、てめぇは!」
ならず者の一人がその闖入者を睨め付けるように近付くが、それを鬱陶しそうに払い除けると、男はまるで見えない何かに弾かれたかのように宙を舞い、地に叩きつけられた。
突然の出来事にならず者の間に動揺が走るのが見て取れた。
「用があるのはてめぇらじゃなくて――」
男性がこちらを指で差し、ぶっきらぼうな口調で告げてきた。
「そっちの嬢ちゃん、多分こっちの連れなんでな――どっか行ってくんねぇか?」
お読みくださりありがとうございます!
迂闊でですわ口調のバニラ・クリムを少しでも気に入っていただけたり、続きが気になるなぁと感じていただけましたら、ブックマークやリアクション、下のポイント★1からでも良いので、反応をいただけると作者のやる気に繋がりますので、どうぞよろしくお願いいたします!