第66章『在りし日の記憶』
過ぎ去りし日の記憶。
閉ざされても、なかった事にはならない出来事——
『あの時、出会っていたんだ』
シェイプシフターのオドを切り裂き、飛び散る鮮血の如く溢れかえるマナの奔流の中で、ハラミは不思議な光景を目の当たりにした。
瞬きの内に目の前の光景が豹変し、慌てて周囲の様子を窺う。そこは、先程まで激しい戦いが繰り広げられていた空間ではなく、それでいて同様に薄暗い闇を魔鉱石の淡い光で照らされた場所だった。
領根の迷宮区画内である事は間違いなさそうだったが、すのぴやとらをはじめとした、先程まで共に戦っていた者達の姿がどこにも見当たらなかった。それどころか、
——身体が、ない……!?
自然と視線を動かせていたために気付くのに遅れたが、視界を下に向けたところで自身の肉体すらも存在していなかったのだ。
まるで意識だけが彷徨っているかのようで、気味悪さにないはずの肉体が震えたように感じられた。
何が起きているのか、他の者達は無事なのか。
気掛かりは止めどなく沸いて出てくるが、今のハラミには現状を理解するための答えを持ち合わせていない。元に戻れるのかすら分からない状況に不安が心を蝕み始めそうになるのを感じ、気を強く持とうと意識を集中させる。
——もしかして、これが夢というものですか!
自分は今まで見た事はなかったが、ぽー曰く、夢とは睡眠中に脳が記憶を整理するために見るもの、という風に言っていたのを思い出す。
迷宮区画は似通った構造がいくらでも存在するので、見た事がないと感じるこの光景もどこかで記憶したものなのかもしれない。あるいは、上位個体となる前の、ただの魔物だった頃の朧気な記憶なのかも——そう考えた直後に、今まで変わり映えしなかった薄闇に変化が訪れた。
薄闇の奥から腹の奥まで響くような重い足跡を響かせながらこちらへと近付いてくる存在を視認する。
焦茶色の体毛に覆われた屈強な肉体を持つ牛頭のヒト型。その姿を認識した瞬間、その正体が脳内に浮かび上がり、不思議なくらい違和感を抱かずに受け入れていた。
——あれは、かつての自分……
どういう訳かは分からないが、過去の自分の姿を異なる視点から眺めているのである。
奇怪な状況に混乱しそうになると思われたが、あまり慌てる事なく、目の前の光景を受け入れていた。
時折背後を振り返り、その度に表情を引き攣らせている自分の様子は、酷く慌てているようだった。
まるで何かから逃げ惑うように——その考えが正しいものであると証明するように、その背後から迫ってくる存在を見つける。
粘性を帯びた液体で構成されたそれは、全身を蠢かせながら這いずって、かつての自分を追い掛けてきている。その正体は、今の自分は知識として答えを持ち合わせていた。
——シェイプシフター!
他の生物に擬態する魔物の素の姿を捉え、先程まで激闘を繰り広げていた相手が想起される。
その姿に脳髄が痺れるような錯覚を覚える。確たる証拠はなく、予感めいたものしか感じられなかったが、アレがヒュドラ擬きと同じ存在であると認識していたのである。
状況から見て、かつての自分はあのシェイプシフターに追われて逃げ回っているようである。その後の事を考えれば逃げ切れたはずなのだが、どのような展開があったのかは未だに記憶に靄が掛かっていて思い出せないでいた。
この光景を見続ければ記憶を取り戻せるだろうか。そんな淡い期待を抱いて、こちらの視点を通り過ぎてしまったかつての自分達を追うように意識を振り返らせる。
すると、視界の中央に自分とシェイプシフターの背面が映り込み——その向こう側に突如として黒い靄のようなものが現れるのを見た。
宙の、何もなかったはずの場所から湧き出るようにして現れたそれは、ハラミの意識ではつい先程にも見ていたので覚えがあった。
——時空穿穴……
ヒュドラ擬きの体内に取り込まれていた時空の歪みが突如として現れ、体積を瞬時に膨れ上がらせていく。
迫る脅威から逃げ延びるために必死になっていた自分の行く手を遮るように、闇が一面に広がる。
突然の出来事にかつての自分は虚を突かれたようで、制動する事も叶わず、闇の中へと飛び込んでしまった。そして、追走していたシェイプシフターも同様に黒に取り込まれてしまったのである。
用を成したのか時空穿穴は現れた時とは逆の動きで、宙の一点へと収束していき、まるで何も存在していなかったように、痕跡一つ残さずに消え去ってしまった。
——そうだ……自分は、この後……
記憶の蓋が剥がれ落ちたように、ハラミの脳内に情報の濁流が押し寄せる。
何も見えない闇の中で意識だけが存在し、動く事も出来ずに黒の世界を揺蕩い続けていたのだ。
そこにあるのは恐怖と孤独だけで、徐々に心が蝕まれていった。
元々自分は争いを好まない性格をしていた。何故好き好んで戦うのだろうと疑問を抱いており、同種の存在と出会した際には酷く嫌悪感を露わにされたのだ。何故、ミノタウロスの象徴であるバトルアックスを所有していないのかと誹りを受けた事もある。それでも、自分の考えは変わる事なく、戦いは怖いもの、戦わずに済めばそれで良いと思い続けていた。
この闇の中での時間がその考えに拍車を掛けたのか、精神が脆弱になったのか、いつしか自分は戦いを恐れるようになっていた。
どれだけそこで過ごしたかは分からないが、いつの間にか自分は時空穿穴の中から弾き出されおり、次に視覚が像を結び出した時には、
——自分は、上位個体となっていた……
その闇の中でいた事で進化を促されたのか、あるいは別の要因があったのかは分からない。ただ、自身に何が起きたのかだけは、思い出す事が出来た。
黒の世界から帰還した自分の周囲にはシェイプシフターの姿はなく、何も分からない状態で放浪し、襲い来る魔物達から逃げ惑う日々を繰り返す事となる。その果てに、シロウとユズリハと出会う事となる。
これが自分の身に起きた出来事で、思い出せた事ですっきりすると思ったが、心の片隅に澱みを感じられた。
——あのシェイプシフターに何が起きたのか……
時空穿穴に飲み込まれたはずなのに、逆にそれを取り込み、驚異的な成長を遂げたシェイプシフター。
その身に何が起きたのかが気になり、思考をそちらへ向けようとした直後、
「——!?」
脳内が痺れるような感覚に意識が硬直する。
自分とは異なる何かが、脳に無理矢理流し込まれているようで、怖気が走る。
——あ、あぁ……
抗いようのない状況に、心はざわめき、意識が薄れいくのを感じる。
視界がぼやけていく中で、ハラミの意識は情報の奔流に飲み込まれていった。
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