第53章『今際に願う』
残した者に何を託し、何を願うのか――
『どうか、お願いします』
視界が霞み、全身から力が抜けていくのを感じる。
身体の先端から熱が失われていく感覚に、焦燥感が募る。
座して壁に寄り掛かっている姿勢であっても、気を抜けば瞬く間に頽れてしまい、僅かに残った灯火は無慈悲にも吹き消えてしまうだろう。
――お願い……あと少しだけ……
願い、失われていく力を総動員して、右腕の動作に集中する。
左手に乗せるだけの形で支えているな日誌へ稚拙な筆跡を刻み付ける。
そこには我ながら自慢に思っていた達筆な文字など存在せず、刻限に間に合わせるための走り書きだけしか綴られていない。
伝えなくては。
ただその一心で、知り得た情報を託すために記していく。
自分達が追い求めていた存在がヒュドラではなく、全く異なる魔物であったという事を。
最初から違和感がなかった訳ではない。
縄張りを離れて徘徊しているという情報は、ヒュドラの習性を考えれば異常な事である。
その違和感を、変異種なのだろうという推測で納得させ、盲目的に追い続けたきた。
その果てに掴んだ結果は、魔物の正体がシェイプシフターが化けたものである、という事実だった。
――ハラミくん……
恩返しで、と案内を申し出てくれた彼がこの事を知ったらどれだけ自責の念に苛まれてしまうだろうか。
きっと彼の事だ。彼のせいではないと言い聞かせたところで、泣いて許しを請うてくる姿がありありと想像出来た。
彼に余計な負い目を感じさせたくない。
だから、ヒュドラと思われていた魔物の正体に勘付いた時点で秘密裏に対処を試みたのだが、
――そう上手くはいかないかぁ……
結果としては、シロウの尽力により敵の秘密を暴く事に成功したのだが、
「……どれぐらい、気を失って……いたでござる、か……?」
膝上から力無い声がか細く送られてくる。
こちらの膝を枕にして意識を閉ざしていたシロウが、ゆっくりと思い瞼を持ち上げていく。
開かれた瞳に生気はなく、こちらが見えているのかも怪しいぐらいに、虚ろに濁されていた。
無理もない。
シロウの脇腹は魔物によって抉られ、ここに辿り着くまでに幾つもの臓物が溢れ落ちてしまっているのだ。
こうして再び意識を取り戻したのは、ただただ、奇跡としか言いようがなかった。
「小一時間ほどですよ」
「そう、か……間に合い、そうでござる、か?」
何が、とは言って来なかった。その余裕すら、今の彼には残されていないのだろう。
胸が締め付けられる感覚を押し殺し、綴る手を止める事なくシロウに答える。
「術式は符に込め終わってますので、あとは手記に書き残すだけですよ」
だから大丈夫です、と言外に伝えたつもりだが、声は震えていなかっただろうか。
時間との勝負で、恐らくはギリギリだろう。
だから、今にも散ってしまいそうな彼を慮る暇はない。
我ながら薄情ね、と心苦しく感じるが、彼の望みを果たすためだ。仕方のない事だと割り切るほかない。
あのシェイプシフターをこのまま野放しにしていては、多くの者達が犠牲になってしまう。それを阻止するためにも、知り得た情報と対策となる力を残さなければならない。
――どうか、善良な人に見つかりますように……
その願いは、これから遺す物に向けたものだけではない。
シェイプシフターがヒュドラに化けていた事に気付かないように、そして残り僅かとなった自身の命が散る瞬間を見せて悲しませないように。
そんなこちらの勝手で独り置いていく事になったハラミを、どうか優しい人達が見つけてくれますように、と願うばかりである。
――ほんと、勝手ね……
何も言わず、紙切れ一枚だけを残して姿を消した自分達を、彼は恨むだろうか。
いや、きっと何故という思いに苛まれ、見捨てられたと感じて悲しんでいる筈だ。
悲しませたくない。その想いで行動した結果、違う形で彼を悲しませている。
もっと上手く立ち回れていれば、などともしもに縋りたくなるが、残された時間の少なさを考えればこれしか方法はなかったのだ。
言葉で説得を試みる猶予があったとは思えないし、心無い言葉で傷付け遠ざける覚悟はなかったのだから。
ハラミと出会わなければ、彼を徒に傷付ける事はなかったのだろうか。
「それは……違うで、ござるよ……」
生気を失い途切れ途切れではあったが、力強さを感じさせる言葉がシロウから放たれる。
焦点が合っていない筈の視線で、それでもこちらをしっかりと見据え、
「ハラミと過ごした、日々は……掛け替えのない……時間でござった……そうで、あろう……?」
だから、それを否定してはならない。
鋭く、そして優しさに満ちた視線がそう語り掛けてくる。
「そう、ですね……シロウさんの言う通りだわ」
だからこそ、ハラミへの対応を誤ってしまったとしても、願わずにはいられない。
彼の無事を――そして、素敵な出会いがありますよに、と。
彼は臆病だから、そんな彼を支え、踏み出す勇気をくれる人がいてくれたらと思う。
意思表示が苦手だから、上手く気持ちを伝えられなくて衝突する事もあるかもしれないが、想いをぶつけ合って絆を深められる友人を見つけてほしい。
いつかは愛する人と巡り会うのかもしれない。
――素敵な人だと良いわね……
なんて、自分のような人間には分不相応だが、それそれでも本心からの願いだ。
行く末を見届けられない不甲斐なさと悔恨はあるが、それ以上に願いが、祈りが心の中を満たしていく。
「すまぬ、が……そろそろ、限界のようで……ござる……」
シロウの声が一際小さく漏れ出す。
その時が来たのだと告げられ、霞む視界が更に滲むように感じた。
「ユズリハ、よ」
「はい」
「――愛している」
シロウの言葉と視線を正面から受け止める。
私もですよ、という返事は届いていたのだろうか。
「まったく……せっかちな人ですね」
用を成した筆と手記を懐のボックスへと収納する。
どうにか間に合った。
安堵と共に去来する虚脱感は、このまま命すらも体外へと排出してしまうだろう。
残された力を振り絞り、シロウの頭を撫で、顔を近付ける。
「私も、今、行きます――」
重ねた唇から感じる熱は、光届かぬ迷宮の底へと溶け消えて――
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