プロローグⅣ『すのぴ:Waking again』
誰何の問いに明確な答えはなく、存在の証明は朧げな記憶の断片――
『自分は何者なのか?』
それは朧げな記憶の残滓だった。
温かい光で包まれた空間で、自分に背を向けて立つ姿があった。
腰まで伸びた白亜の髪を流れるそよ風に泳がせ、見上げた視線はここではない何処かへと思いを馳せているのだと感じさせる。
「もう……だけ……なっちゃった……」
目の前の女性が振り返ることなく、こちらへと言葉を投げ掛けてくるが、音は大気へ溶けていき、僅かにしか聞き取れなかった。
ただ、
――悲しそうな声……
きっと、その頬は流れる涙で濡れ、悔しさを堪えるために噛み締めたであろう口元は、こちらの心を掻き乱すだろう。
だけど、そうさせないために、女性は毅然と立ち、前を向き続ける。
その背に掛ける言葉を探していると、女性は目元を拭い、こちらへと振り返る。
しなやかな手足の動きは悲しみの中であっても気品さを感じさせ、その表情は、
――見えない……
靄がかかったように女性の顔を認識出来ないでいる。
だが、それでも込み上げる愛おしさに胸が締め付けられる。
彼女が自分にとって特別な存在であると確信させる。
静かな動作で、彼女がこちらへと手を差し伸べてくる。
それに応えるよう、その手を取ろうとしたところで、
「――――!?」
身体の動きが停止する感覚に襲われる。
何故、という問い掛けは発する前にその原因が視界に映る。
影だ。
背後の地面に差した自分の影が、意思を持った生物のように蠢き、こちらの四肢にまとわりついてくる。
影は次第に拘束する力を強めていき、こちらを影の中へと引きづり込もうとしてくる。
突然の出来事になす術もなく、瞬く間に下半身が闇に飲み込まれてしまう。
黒に沈んだ部位の感覚が無くなっていき、そこに自身の身体が繋がっているのかさえ覚束なくなってくる。
「――――!!」
女性がこちらに駆け寄り、連れて行かれまいと手を掴もうとしてくれる。
だが、そうすることで彼女までがこの漆黒の奥底へと連れて行かれるのでは、という不安から彼女に制止を呼び掛けようとして、
「――――……」
そして、その時になってようやく、自分は大切なことを見失っていることに気付いた。
最早首から下の感覚が途切れてしまった中で、気付いてしまった事実に、喪失感と申し訳なさで溢れかえる。
必死に手を伸ばし、恐らくこちらの名前を叫んでいるであろうその姿を見つめながら、大切な存在だったはずの彼女を思い、それでも――彼女の名前が、思い出せなかった。
◆
「おい、大丈夫か!?」
身体を揺さ振られた衝撃と呼び掛けによって、意識が表層へと浮上してくる。
「ん……」
全身のこわばった筋肉を解すように身動ぎし、重たい瞼をゆっくりと開けていく。
淡い光に、それでもいつ以来になるかも分からない刺激に、受容器が混乱して上手く像を結べずにいる。
ようやく視界が周囲の状況を受け取ることが出来るようになったタイミングで、こちらの様子を窺っていた男性が、再び口を開いた。
「大丈夫か? 随分うなされていたみてぇだったが」
精悍な顔立ちに鋭い視線を携えながら、男は力強い声に心配の色を滲ませて訊ねてくる。
「えっ……と……」
声帯を振るわせて、言葉を紡ごうとしたが、こちらも視覚と同様に機能させるのに時間を要した。
その様子を見て、騎士の鎧を兜以外身につけた青年が男の背中越しから言葉を挟んでくる。
「まだ意識が朦朧としているようですね。今がどういう状況か分かりますか?」
問われ、視線を動かす。
そこは自然光ではなく、発光する鉱石により視界が確保された洞窟内、といった様相だった。
そして、自分はそこで横たわっている状態だった。
ただ、仰向けになった自分の背と硬い地肌の間に柔らかな感触を感じられ、広げられた布か何かの上にいるのだと理解する。
軋む身体に力を込め、どうにか上体を起こそうとすると、男性が背を支えてくれたおかげで、どうにかそれを完遂する。
「ここは……」
自分が今どこにいるか分からない。
自分の様子を窺っている彼らのことも知らない。
青年が訊いてきた、どういう状況かなどもってのほかだ。
分かるとすれば、
「ご自身の名前は、分かりますか?」
「――すのぴ」
青年の問い掛けに、自然と音が紡がれた。
耳に馴染んでいるこの響きが、自身の名前なのだと疑うことなく、口にしていた。
しかし、自身のことで思い出せるのはそれぐらいだった。
どこで生まれ、家族は何人かといった情報が引き出せない。
何故自分が――
「あの化け物は!?」
そこでようやく思い至る。
自身ことは分からないことばかりだが、網膜に焼き付いた光景から自身を何度も捕食し続ける存在を思い出す。
途切れ途切れの光景だが、自分は繰り返しあの化け物に呑み込まれていたのを覚えている。
助けられた、という希望はしかし、この身にこびりついた絶望が直ちに塗りつぶしていく。
――逃げようとしても、アレからは逃げられない……
かつて自分が試みた末の結末が、やがて訪れる結果を想起させる。
心にのしかかる真っ黒い気持ちに、思考が覆われていく。
「訊いてもいいか?」
そこで、男性から声が掛かり、いつの間にか俯いていた視線をもたげていく。
◆
「訊きたいことは山程あるが」
そう前置きして、傍らでこちらを見上げてくる桃毛の兎人族の少年――恐らく少年ぐらいに見える相手を見据えて、こちらの疑問を投げ掛ける。
「お前を取り込んでいた化け物――TOIKIについて分かることはあるか?」
「TOIKI……」
オウム返しでその名を繰り返す様子に、望んだ回答は得られないと直感する。
やがて、すのぴと名乗った少年が首を横に振るのを見て、思わず深い息を漏らしてしまう。
「なら、お前さんの特性――<再生>についてだが」
長年の観測で、TOIKIに取り込まれた彼はおよそ一年周期でTOIKIの体外に排出されることが分かっていた。
排出される際は痩せ細って衰弱しきった姿だが、やがて卵状の何かに変異し、そして今目の前にいるすのぴのように見た目は健全な状態へと回復するのである。
「TOIKIから助け出したときに見たあれですね」
その時の光景を思い出してか、かぷこーんが背後で呟いているのを聞いて、頷きを返す。
「あの特性はワンダーラビットっていう種族特有のものなのか?」
TOIKIを討つために少しでも多くの情報が欲しいところであったが、TOIKIの生態は謎が多過ぎる。
ならばと、TOIKIに関わりのあるすのぴの話を聞き出せればと考えたのだが、先程のすのぴの様子からして返ってくる答えはあまり期待出来るものではなかった。
――駄目で元々だが……
藁にも縋る気持ちは確かにあったが、こちらの質問を受けてすのぴが呆然としているのを見て、諦めの感情が湧いてくる。
しかし、
「――<再生>の特性はワンダーラビット固有のものではなく、一部の個体に発現した数ある特性の一つに過ぎません」
すのぴの口から流暢に紡がれた言葉に思わず目を剥く。
だが、その発言に驚きを露わにしたのは自分やかぷこーんだけでなく、
「……どう、して……?」
言葉を発した本人ですら、何故そのことを知っているのか分かっていない様子だった。
しかし、そんなすのぴの困惑をよそに、胸の内に興奮が沸き立つのを感じる。
「他に何か分かることはあるか!?」
すのぴの肩を掴み揺さ振る。
どんな情報でも構わなかった。
TOIKIに繋がる情報が得られるなら、どんな些細な事でも喉から手が出るほどに欲しかったのだ。
「えっ、と……」
「とらさん」
こちらの鬼気迫る様相に恐れの表情を浮かべるすのぴと、かぷこーんの静かな呼び掛けで我に返る。
「彼もまだ困惑しているようですし、話をするにしてももっと安全な場所まで移動しませんか?」
「そう、だな……」
地下回廊内は入り口の狭さもあってか凶悪な魔物の姿はないが、それでも依然としてここは魔窟と呼ばれる深淵領域の只中である。
かぷこーんの提案に冷静さを取り戻し、こちらに怯えた視線を向けてくるすのぴに頭を下げる。
「悪かった……とにかく今は深淵領域を抜けるのが先決だな」
立ち上がり、身支度を整えていく。
迅速にボックスから取り出していた物を収納していき、最後に残ったすのぴの下に敷かせていた羊毛のシーツを回収しようとしたところで、すのぴが俯いたまま動かなくなっているのに気付いた。
特徴的な長耳は力無くしな垂れており、小言で何かを呟いているようだった。
「……だ……ない」
「おい、どうかしたのか?」
こちらの声にハッとした様子で、表情を跳ね上げる。
「……無理だよ……あの化け物からは、逃げられない」
悲壮感に包まれた力無い声が絞り出される。
絶望。
そう表現するしかない表情に思わず息を呑んでいると、すのぴの頬が濡れていくのが見えた。
◆
すのぴの絶望に塗れた表情を目撃した瞬間、胸の奥から込み上げる衝動があった。
――どれほど、辛い思いをしてきたのだろうか……
透き通った水のような声が悲痛な嗚咽で掻き乱されていく。
状況からの推測でしかないが、きっと気が遠くなるような月日をTOIKIに奪われ続けたのだろう。
そして、先の発言からは、どうにか逃げ延びようとしたがそれが叶わなかったのだと感じさせられた。
ならば、彼に伝えなければならない。
「すのぴ」
彼の傍らに片膝をつき、目線の高さを合わせる。
すると、すのぴもこちらを見返してくる。
その瞳に大粒の涙が次から次へと溢れてくるのを見て、胸が締め付けられるように苦しくなるのを感じる。
彼の奥底に堆積した苦しみを少しでも軽く出来るように声を掛ける。
「もう大丈夫だよ」
「……え?」
言われた言葉の意味を理解出来ないといった様子だったが、彼を安心させるために言葉を続ける。
「かつてはどうだったかは分からないが、今は僕がいる」
聞きようによってはなんと高慢な物言いだろうと内心苦笑するが、今はそれで構わないとも思う。
虚言を弄するつもりはない。
確かな意志を持って、彼を助けたいという思いが言葉を紡いでいく。
「それにこっちのおっかない人も、世間では英雄と称されるほどの実力者だ」
「おい」
とらが睨みつけてくるが、先程すのぴを怯えさせた分を払拭しようとしての物言いなので、容認していただきたい。
「自己紹介がまだだったね。僕はかぷこーん――西領諸国ソルベ法国の正騎士かぷこーんだ」
そう告げて、すのぴに手を差し伸ばす。
すると、弱々しく持ち上げられた手がこちらを掴んでくる。
拭いきれない恐怖からか震えが止まらない手に、安心してもらえるよう握り返す。
「……助けて、くれるの……?」
「もちろんだ。君が助かりたいと諦めない限り、僕も君を助けることを諦めない」
まぁ、君がどう思っていようが僕は問答無用で君を助けるよ、と付け加えると、とらが呆れた声でお節介野郎め、と茶々を入れてくる。
「スタンスは違えど、貴方も同じ考えでは?」
「……さぁな」
ぶっきらぼうに、しかしとらもすのぴの手を掴み、引き起こそうと力を込めていく。
それに倣い、こちらも腕を引き、三人で立ち上がる。
「わっ……と」
まだ上手く力が入らないのか、すのぴが足をもつれさせてしまうのをしっかりと受け止める。
「まだ歩くのはキツそうだね……とらさん」
「しゃーねぇな」
とらが頭を掻きながら背を向ける。
背負っていた鞘が生物のように蠢き、収めていた大剣を放出する。
それを掴んだとらが肩越しに、
「背負ってやるからこっちに来な」
「えっと……」
すのぴが困惑しているようだったので、大丈夫と声を掛けて、その身を支えてとらの背に近付ける。
すると、鞘がすのぴを包み込むように形を変えていく。
見る間に首から下を覆われたすのぴがとらの背部に固定される。
「重く、ないですか?」
「全然。それにこいつに収まったもんの重さは感じないようになっててな」
「便利な魔道具――いえ、そのサイズということは古代遺物、ですね」
異相空間に物を収納するボックスは生きている者を入れれないため、要救護者の運搬にはとらが使っているそれが有用だなと眺めていると、とらが得意気に特別製だぜと広角を吊り上げてみせた。
「さて――地下回廊も後半日もあれば抜けられるはずだ」
とらに促され、かぷこーんも足を進める。
その後も魔物と遭遇することもなく、順調に回廊を歩み続け、そして――
お読みくださりありがとうございます!
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