プロローグⅢ『大いなる厄災』◆
それは形を持つ絶望。
人の身に余る存在。
されど、闘志は揺らぐことなく——
『また会えたな』
男は——とらは、数多の都市を滅ぼした厄災を見下ろす。
”誰にも殺せぬ恐怖の象徴”——TOIKI。
今日こそ、殺す。
——あの日、俺だけを殺さなかった報いを受けさせる。
◆
それに近付くにつれて、身体が内側から焼かれていく。
呼吸が浅く、目的地まで駆り立てる。
頬を伝ったはずの汗が、流れ去る景色に囚われて背後へと置き去りになる。
脳裏に浮かぶ光景が心を掻き毟る。
それは幼き日の——絶望の記憶。
焼け焦げた煤に混じって、鼻孔に突きつけられる血と肉の異臭。
劈く悲鳴と絶命へと至る苦悶が鼓膜を打つ。
そして、何も出来ずに打ちひしがれる自分を覆い尽くそうと、近付いてくる巨躯——
汗が、恐怖から来るものに替わるのを抑える。
駆ける体躯に力を入れ直す。
森林地帯を抜け、崖上へと辿り着く。
眼下に広がるのは荒廃した原野。
そこを突き進んでくる巨躯を捉えるのにそう時間は掛からなかった。
——まだ、アレの場所には辿り着いていない、な……
その巨体が目指しているのは、こちらの崖下である。
疾駆する速さから推測し、到着まで残り二分もないだろう。
——アレを捕食するタイミングを狙う!
待ちわびた瞬間が間もなく訪れるだろう。
身を低くし、決行の瞬間に備えて、意識を研ぎ澄ませていく。
男は汗が滲む手を握りしめて、その時を待つ。
「あれは、まさか……」
「……ここから離れろって言っただろうが」
音もなく横に並んだ青年に、呆れた声で叱責する。
だが、青年は男の言葉など意に介していないようで、近付いてくるモノに意識を集中させていた。
蛙を彷彿とさせる体躯は不気味に輝く白銀の光を帯び、大地を蹴り上げる二本の脚は鳥獣のそれを思わせる程に身体の大きさに見合わない細さであった。
退化した前肢、爬虫類のような尾、異様に飛び出した眼球など、生物を継ぎ接ぎしたような異形。
その姿に青年は思い当たる存在がいたのか、零れるように言葉を漏らした。
「あれが……TOIKI」
誰にも殺せぬと恐れられた厄災。
眼下に迫りつつあるそれを見据え、青年が腰に提げた刀剣に手を伸ばし、今にも飛び出していこうと前傾姿勢になったところで、
「まだだ」
男は端的な言葉と共に青年の肩を掴み、この場に押し留める。
なぜと問い詰めようとする青年の様子に、男は見れば分かるという風に顎で崖下を示す。
TOIKIは既に崖下にまで到着しており、不気味に裂けた大口から大気を取り込んでいた。
膨れ上がった腹部が大きく跳ねた。
瞬間、男は咄嗟に両耳を塞ぐ。
青年もまた男の動作に倣い、耳に手を当てた直後、
「ーーーーーーーーーーーー!!」
大気が爆ぜた。
空気の振動が轟音を伴い、空間そのものを震え上がらせる。
次いで、崖下からは視界を覆い尽くす程の土煙が巻き上がってくる。
——相変わらずとんでもねぇな……
ただの咆哮だけで今の状況を引き起こした存在に空恐ろしいものを感じる。
全身に纏わり付く風が粉塵を押し流していく。
男は、徐々に薄れゆく砂塵のヴェールの先を見据える。
地盤が大きく抉れ地中深くまで露出した中央に、それは柔らかな輝きを放ち鎮座していた。
「……卵? まさか、TOIKIの」
「違う」
男が低く否定する。
推論が正しければ、あれは——
「餌だ」
隣で青年が息を呑む。
直後、1m程の卵の表面に裂け目が走る。
押し広げられた隙間から眩い光が溢れ出し、周辺の闇を押し返していく。
裂け目が次から次へと表面を走っていき、遂には卵殻が剥がれ落ちていく。
「あれは……」
生まれ落ちた姿を見た青年が、二の句を繋げられずに息を吞むのが聞こえる。
それは、蹲っている人型だった。
全身を体毛に覆われた姿は人族のそれとは異なり、獣人と呼ばれる存在の特徴を有していた。
丸味を帯びた尻尾にピンと伸びた長耳——兎人族の特徴を持った男性体。
淡い桃色の体毛であるそれは、通常の兎人属とは異なり、特別な意味を持つ。
「ワンダー、ラビット……」
それは創世神話に存在したとされる幻想種。
無限のマナを有する奇跡。
まさか、そのような存在が現れるとは、男にも予想出来ていなかった。
だが、
「ここまで付いて来たんだ、てめぇも手伝え!」
男の視線の先で、TOIKIが横たわるワンダーラビットに近付いていくのが見えた。
その表情は心なしか恍惚を感じて、歓喜に歪んでいるようにも見えた。
見立てが正しければ、あの兎人属がTOIKIの生命線だ。
ならば、
「あいつを喰わせるな!!」
叫び、男は得物を握り締め、崖下へと身を投げ出した。
落下の最中。
まるで互いが引き合うように、眼下のTOIKIと——
確かに、目が合った。
その瞬間。
化け物の口元が、吊り上がった。
——待っていた、と言わんばかりに。
視線は、逸れない。
真っ直ぐに。
俺を、射抜いていた。
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