第96章『囁くもの』
その声は、内より生まれたものなのか。
あるいは、何者かの意思によるものなのか。
答えを知る者は、今はまだ——
『さあ、どうする?』
訳が、分からなかった。
迫る暴力の嵐を掻い潜りながら、すのぴは現状を理解しようと努めていた。
だが、脳内を埋め尽くす何故に対する答えは見付けられなかった。
何故、ルークはこちらの内側にあるものを引き出そうとしているのか。
何故、ルークに傷を与えられなければ保護されてしまうのか。
何故——仲間達は助けようとしてくれないのか。
答えはない。
どうして、という疑問だけが脳内で堂々巡りを続けていた。
振り下ろされる拳を半身を引くことで回避する。
だが、それを見越していたかのようにルークから回し蹴りが放たれる。
膝を落として避けたものの、側頭部を掠らせたそれは、体毛の一部を削り取っていく。
熱が、身体の奥底から沸き立つように吹き出る。
その感覚が流血によるものだと悟った時、背筋が震えた。
直撃を受けていたら。
想像したくもないイメージが浮かび、全身が竦みそうになる。
しかし、動きを止めていられる余裕などなかった。
ルークの攻撃が苛烈さを増していく。
一つの判断ミスが致命となる状況だ。
心を奮い立たせ、状況の打開を試みようとするが、ささくれ立つ気持ちはすぐには切り替えられなかった。
——保護って、どういうこと……?
言葉の意味は分かる。
だが、それを実行された場合、自分はどうなる?
ギルドに匿われることになるのだろう。
そうなれば、ワンダーラビットの存在がばれる心配は激減するかもしれない。
TOIKIがまた狙ってきても安全な場所で守ってもらえるかもしれない。
——でも……
それは、ここで自分の旅が終わるということを意味している。
かぷこーんへの恩を返せないということだ。
バニラに協力するといった約束を反故にするということだ。
TOIKIという恐怖から目を逸らして、殻の中に閉じ籠もるということだ。
——嫌だ……
果ての見えない闇の中から助け出してもらったあの日からを思えば、受け入れたくなかった。
誰かを助けられるようになりたい。
恐怖に囚われていた、何もかもを諦めた日々を終わらせたい。
その為に、ここまで歩んで来たのだ。
だから、ルークが告げた条件をクリアしなければならない。
疑問は依然として残っているが、全ては現状を乗り越えてから考えれば良い。
そう思い、眼前のルークに集中しようとした。
だが、
「……あ」
ふと、視界の端に映った姿に、心が揺さぶられる。
とら達がこちらを見ている。
身構えていたり、武器を手にしているが、遠巻きにこちらを見ていた。
その姿が、先程感じていた疑問を想起させる。
どうして、助けようとしてくれないのか。
嫌な想像は、一度でも浮かんでしまうと容易に振り切れるものではなかった。
とら達はこうなるべきだと判断したのではないのか。
ルークに打ち負かされ、ギルドに保護されることを——
「…………そん、な……」
疑念が心を塗り潰していき、足元から力が抜ける感覚に襲われる。
まるで、踏み締めていた地面にぽっかりと穴が開き、闇の中へと沈んでいくような——
「どこを見ておる!!」
ルークの叫びが拳と共に身体を打つ。
腹部を抉るような衝撃と共に視界が急変する。
床が遠退き、皆の姿が小さくなっていく。
背面に衝撃が走り、そこでようやく天井に打ち付けられたことを理解する。
喉の奥から鉄錆びたものが溢れるのを感じながら、重力に全身を引かれ——意識が暗転する。
◆
そこは青みがかった闇の中だった。
先程までギルド総本部の修練場にいたはずが、いつの間にかすのぴ以外の気配は感じられなかった。
周囲を見渡してみても、どこまでも続く暗闇が世界を満たしていた。
足元に地面があるのかさえ定かではない不安定さを覚えながら、すのぴは声を張り上げようとした。
しかし——
「————」
声が、世界を振るわすことはなかった。
確かな手応えとして、声帯を震わせている感覚はあった。
なのに、何も聞こえなかった。
まるで全ての音が、周囲の闇に飲み込まれているようで——
『よう……お困りのようだな』
無音の世界で、それは突如として響き渡った。
鼓膜ではなく、脳に直接語り掛けてくる声に、言いようのない不快感に苛まれる。
声の主を見付けようと、周囲の変化を読み取ろうとするが、
『助けてやろうか?』
瞬きの刹那に、それは眼前に現れた。
青黒い靄の集合体。
兎人族の姿を象ったそれが、こちらに手を差し伸ばしてくる。
反射的に飛び退こうとしたが、足元が何かに絡め取られており、その場から動くことが出来なかった。
粘り気のある水、あるいは泥のような何かがいつの間にか膝までを飲み込んでいた。
脚を引き抜こうとするも、徐々に膝より下の感覚が朧気になっていき、魂さえも震え上がるような恐怖に囚われ——
『そう脅えるなよ』
靄の口元が裂けていくように見えた。
それは凄惨なまでの笑みにも感じられ、その声を拒絶したくて堪らなかった。
咄嗟に耳を塞いだが、そんなものでこの声は遮ることなど出来ず、
『俺はお前の——なんだから』
何を言われているのか、理解出来なかった。
その音は確かに脳に届いていた。
だけどその意味を、本能が拒んでいた。
『まぁ、どう思おうが勝手だが……今はそうも言ってられないだろう?』
声が嘲るような色を帯びる。
『仲間達は助けてくれず、このままじゃ自由を奪われちまう』
先程まで置かれていた状況が、声に呼応するように思い返される。
それだけで、心の中が黒く塗り潰されていくようで、息苦しささえ感じてしまう。
『そうなりゃ、あの頃と大差ないんじゃねぇの?』
それがどういう意味かは、すぐに思い至った。
TOIKIに囚われ、誰にも助けて貰えず、考えることを放棄してしまった日々。
それと同様な状態に、また戻ってしまうと言うのか——
『そうならないためにも、お前の邪魔になるものはさ』
靄が近付いて来る。
それを見ても、どうにか距離を取ろうとする気は起きなかった。
靄の腕がこちらの胸に触れようとしているのを、ただ呆然と眺めて——
『全部、壊しちまおうぜ』
お読みいただきありがとうございます!
少しでも気に入っていただけたり、続きが気になるなぁと感じていただけましたら、幸いです。




