第89話 学ぶということ
「ココア様。オスカー・ベルンハルト殿の採用が正式に決まりました」
「本当!?」
朝食を終えたところで、セバス先生から嬉しい知らせが届いた。
「はい。経歴と身元の確認も終わりました。ご本人にも承諾をいただいております」
「やったあ!」
思わず椅子から立ち上がると、セバス先生が小さく咳払いをした。
「ココア様、お行儀が」
「あっ。ごめんなさい」
慌てて座り直すと、セバス先生は小さく微笑んだ。
「学校の建物はまだ完成しておりませんので、当面は屋敷の一室を使い、少人数で授業を行います」
「私も参加していい?」
「もちろんです。ノエルさんとリリアさんにも声をかけてあります」
「二人も!?」
「ええ。領地の子供たちにも参加してもらい、授業の内容や進め方を確かめていく予定です」
私は両手を握りしめた。
オスカー先生の授業を受けられる。それも、ノエルやリリアと一緒に!
「いつから?」
「三日後を予定しております」
「三日も!?」
「準備が必要ですから」
「……はあい」
私が肩を落とすと、セバス先生は困ったように笑った。
「楽しみなのは結構ですが、その間もココア様の勉強はございますよ」
「分かってるもん!」
◇
三日後。
屋敷の一室には、私とノエル、リリア、それから領地の子供たちが集まっていた。
机と椅子が並べられ、前には大きな黒板が置かれている。まだ学校の建物は完成していないけれど、こうしてみると本当の教室みたいだ。
「ココア、先生ってどんな人?」
隣に座ったノエルが尋ねてきた。
「すごく物知りで、質問が上手な人!」
「質問が上手?」
「うん。答えるのが難しいことを聞いてくるの」
「ええ……それって、ちょっと嫌じゃない?」
「でも、面白いんだよ!」
ノエルは首をかしげた。
その隣では、リリアが用意された紙を丁寧に揃えている。
「私、ちゃんと授業を受けるのは初めてだから、少し緊張する」
「大丈夫だよ、リリア!」
「そうかな?」
「うん! 先生、優しいもん!」
そう話していると、扉が開いた。
「皆さん、おはようございます」
オスカー先生が教室に入ってきた。
白いものが混じった髪を後ろで束ね、片手には数枚の紙を持っている。
「おはようございます!」
私が元気よく挨拶すると、ほかの子供たちも慌てて声を揃えた。
「おはようございます!」
「ありがとうございます。では、始めましょうか」
先生は黒板の前に立った。
「初めましての方もいらっしゃいますので、まずは自己紹介をさせてください。私はオスカー・ベルンハルトと申します。以前は王都魔法学院で教えておりました」
「王都魔法学院!?」
子供の一人が驚いた声を上げた。
「はい。ですが、ここでは皆さんと一緒に、新しいことを学んでいきたいと思っています」
「先生なのに、勉強するの?」
ノエルが不思議そうに尋ねた。
「もちろんです。私にも知らないことはたくさんありますから」
「えーっ! 先生なのに?」
教室に笑い声が広がった。
「例えば、私は土の魔法で何ができるのか、詳しくは知りません。ノエルさんの方が、ずっと詳しいでしょうね」
「私?」
「はい。今度、ぜひ教えてください」
「うん! いいよ!」
ノエルが嬉しそうに笑った。
先生は黒板に向き直った。
「さて、今日は最初の授業です。皆さんに、まず一つ質問をしたいと思います」
白いチョークが黒板に文字を書いていく。
『なぜ、学ぶのか』
「皆さんは、どうして勉強するのだと思いますか?」
子供たちが顔を見合わせた。
「字が読めるようになるため!」
「お仕事を覚えるため!」
「お父さんに勉強しろって言われたから!」
最後の答えに、教室から笑い声が上がった。
「なるほど。では、少し考えてみましょう」
先生は黒板に一本の線を引き、その向こう側に小さな家を描いた。
「ここに川があります。皆さんは向こう岸の家へ帰りたい。ですが、橋はありません。どうしますか?」
「泳ぐ!」
ノエルが真っ先に答えた。
「なるほど。では、川の流れが速かったら?」
「えっ?」
「大人でも流されてしまうほどの流れです」
「……じゃあ、泳がない!」
ノエルが即答すると、みんなが笑った。
「それは賢明ですね。ほかには?」
「木を切って橋を作る!」
「近くに木がなかったら?」
「ええっ!?」
「船に乗る!」
「船もありません」
「土の魔法で橋を作る!」
「魔法を使える人がいなかったら?」
「先生、ずるい!」
ノエルが頬を膨らませた。
「せっかく考えたのに、全部駄目って言うんだもん!」
「おや、私は駄目だとは言っていませんよ」
「え?」
「皆さんの方法は、どれも役に立つかもしれません。ただ、いつでも使えるとは限らないのです」
先生は黒板の川を指した。
「泳げない。橋も船もない。魔法も使えない。それでも、向こう岸へ帰りたい。どうしましょう?」
教室が静かになった。
私は腕を組んだ。
川幅はどれくらいだろう。上流か下流に浅瀬があるかもしれない。水の流れを変えることはできるだろうか。
そんなことを考えていたときだった。
「あの……」
教室の後ろから、小さな声がした。
「はい。どうぞ」
「……向こうにいる人に、助けてって言ったら駄目?」
私は顔を上げた。
声を出したのは、小さな女の子だった。
「お家に誰かいるなら、呼んでみるの。そしたら、船を持ってきてくれるかもしれないし……」
女の子は自信がなさそうに俯いた。
「でも、誰もいなかったら駄目だよね」
「いいえ」
オスカー先生は、ゆっくり首を横に振った。
「とても大切な考え方です」
「……本当?」
「ええ。自分一人ではできないことを、誰かに助けてもらう。立派な方法ですよ」
先生は黒板の家のそばに、小さな人の絵を描き足した。
「向こう岸に誰もいなければ、こちら側で助けてくれる人を探してもいいのです」
「あっ!」
ノエルが声を上げた。
「じゃあ、魔法を使える人を呼んでくればいいんだ!」
「船を持ってる人を探す!」
「大人に相談する!」
次々に声が上がった。
私は黒板を見つめていた。
……そっか。
私は川を渡る方法ばかり考えていた。
橋を作るとか、水の流れを変えるとか。
でも、あの子は最初に、誰かを呼ぶことを考えたんだ。
研究でも、専門外のことは詳しい人に相談する。そんな当たり前のことを、今はすっかり忘れていた。
「先生!」
「はい、ココアさん」
「私、川を渡るための道具を作ることばっかり考えてた!」
「それも大切な方法ですよ」
「でも、助けてもらう方が早いこともあるんだね!」
「ええ。何でも自分で解決しなければならないわけではありませんから」
先生は黒板にいくつもの道を書き足した。
「皆さん。船や橋を知っていれば、泳ぐ以外の方法を選べます。誰かに頼ることを思いつけば、さらに道が増えるでしょう」
先生は私たちを見渡した。
「私は、学ぶことは可能性を広げることだと思っています」
「可能性?」
さっきの女の子が首をかしげた。
「簡単に言えば、自分が選べる道を増やすことです」
先生は黒板の絵を指した。
「知らなければ、選ぶこともできません。ですが、知っていても、自分一人ではできないことがあります」
「じゃあ、いっぱい勉強しても、何でもできるわけじゃないの?」
男の子が尋ねた。
「ええ。泳ぎ方を知っていても、すぐに泳げるとは限りません。練習が必要でしょう。それでも、できないことはあるかもしれません」
「じゃあ、どうするの?」
「皆さんは、どうしたらよいと思いますか?」
「……誰かに手伝ってもらう?」
リリアが答えた。
「そうですね」
先生はうなずいた。
「苦手なことには挑戦してみてください。ですが、どうしてもできないことがあったら、誰かを頼ってください」
そこで、先生は一度言葉を止めた。
黒板に描かれた、小さな人の絵を見つめる。
「そして……誰かが困っていたら、皆さんから声をかけてあげてほしいのです」
「どうして?」
最初に泳ぐと答えた男の子が、不思議そうに尋ねた。
「困ってるなら、自分で助けてって言えばいいんじゃないの?」
先生はすぐには答えなかった。
チョークを持つ指が、ほんの少しだけ動いた。
「……そうですね」
さっきまでより、少し静かな声だった。
「そう言えたら、きっとよいのでしょう」
「じゃあ、なんで?」
「助けてほしくても、言えない人がいるからです」
「えっ? なんで言わないの?」
男の子は本当に不思議そうだった。
先生は少し考えてから答えた。
「迷惑をかけたくないと思う人もいます。自分が悪いのだと思ってしまう人もいるでしょう。誰に話せばよいのか分からないこともあります」
「ふうん……」
「だから、困っているように見えたら、声をかけてあげてほしいのです」
先生は小さく息を吸った。
「その人が、一人で抱え込まなくてもよいように」
私は先生を見つめた。
いつも穏やかなオスカー先生。
でも、今の言葉は、ただ本で覚えたことを教えているようには聞こえなかった。
「先生!」
ノエルが手を挙げた。
「はい、ノエルさん」
「じゃあ、私が困ってたら、先生にも助けてって言っていい?」
「もちろんです」
「勉強が分からなくても?」
「ええ」
「土の魔法のことでも?」
「私に分かることなら、お手伝いします。分からなければ、一緒に考えましょう」
「じゃあ、先生が困ったら?」
オスカー先生が目を瞬かせた。
「……私、ですか?」
「うん! 先生だって、知らないことがいっぱいあるんでしょ?」
ノエルは当たり前のように言った。
「だったら、私たちに聞けばいいじゃん!」
教室に笑い声が広がった。
「そうだよ!」
「先生も助けてって言えばいいよ!」
「私、字はまだ苦手だけど、お掃除ならできる!」
子供たちが次々に声を上げる。
オスカー先生は、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとうございます」
いつもより少しだけ、声が小さかった。
「そうですね。私も、皆さんに助けてもらうことがあるでしょう」
「いいよ!」
ノエルが元気よく答えた。
「私、土の魔法なら得意だから!」
「ええ。頼りにしています」
先生は一度だけ目を伏せ、それから黒板に向き直った。
「私は、皆さんに何でも一人でできる大人になってほしいわけではありません」
白いチョークが、黒板に三つの言葉を書いていく。
『知ること』
『挑戦すること』
『助け合うこと』
「知らないことを学び、苦手なことにも挑戦し、誰かと力を合わせられる。そんな大人になっていただけたらと思っています」
先生は私たちを見渡した。
「それが、私が皆さんに授業をする理由です」
私は黒板の言葉を見つめた。
知らないことを知る。
できないことに挑戦する。
一人でできなければ、誰かと一緒に考える。
私が研究を続けてこられたのも、一人で何でもできたからじゃない。
セバス先生がいて、ヒルダがいて、ノエルやリリアがいて。みんなが手を貸してくれたから、ここまで来られたんだ。
それに、今日だってそうだった。
私は川を渡る道具を考えていたけれど、あの女の子は誰かに助けてもらう方法を思いついた。
知っていることが多くても、自分では気づけないことがある。
だったら、みんなで考えた方が、もっとたくさんの道を見つけられるのかもしれない。
「先生!」
「はい、ココアさん」
「私、もっといろんなことを知りたい!」
「ええ。ぜひ、そうしてください」
「それでね、みんなと一緒に、もっといろんなことに挑戦したい!」
オスカー先生は嬉しそうに目を細めた。
「それは、私も楽しみですね」
◇
「では、せっかくですから、今日から一つ始めてみましょう」
先生は机の上に二枚の葉を置いた。
どちらも緑色で、形もよく似ている。
「この二枚は、同じ植物の葉でしょうか?」
子供たちが身を乗り出した。
「同じ!」
「ちょっと違う気がする!」
私は葉を見比べた。
片方は縁が滑らかで、もう片方には小さなギザギザがある。
「違う種類だと思う!」
「どうしてですか、ココアさん?」
「葉っぱの端っこが違うから!」
「よく気づきましたね。ほかには?」
リリアが手を挙げた。
「裏側を見てもいいですか?」
「もちろんです」
リリアは葉を裏返し、じっと観察した。
「こっちは裏に細かい毛があります。でも、もう一枚にはありません」
「本当だ!」
ノエルが覗き込む。
「じゃあ、違う草なんだ!」
「そのとおりです。これは別の種類の植物から採ってきた葉です」
先生は二枚の葉を並べ直した。
「では、次は皆さん自身で探してみましょう。庭に出て、違う種類の葉を二枚ずつ集めてください」
「やった!」
ノエルが真っ先に立ち上がった。
「ノエルさん、まだお話が終わっていませんよ」
「あっ!」
教室に笑い声が広がった。
◇
庭に出ると、みんな夢中になって葉を探し始めた。
「ココア! これ見て!」
ノエルが木の下から葉を拾い上げた。
「こっちは丸いのに、こっちは細長い!」
「本当だ!」
「それに、この木の下だけ土が湿ってるんだよ。あっちは乾いてるのに!」
ノエルは葉だけでなく、土の違いにも気づいていた。
一方、リリアは葉の裏側や茎の形を確かめている。
「リリア、何か見つけた?」
「うん。この草、薬草に似てるんだけど、葉の付き方が違うの」
「じゃあ、別の種類?」
「たぶん。先生に聞いてみようかな」
同じ庭にいても、気になるものは人によって違う。
ノエルは土。
リリアは植物。
そして私は……。
「すいへーりーべー……」
拾った葉を光に透かしながら、つい小さく呟いてしまった。
葉の内部がどうなっているのか、確かめたくなる。
前世の研究室なら、顕微鏡を使っていたところだ。
もちろん、この世界にも似た道具があるかもしれない。でも、私はまだ見たことがない。
「ココアさんは、何か見つけましたか?」
オスカー先生が近づいてきた。
「先生! 葉っぱって、種類によって中の作りも違うのかな?」
「面白い疑問ですね。どうすれば確かめられると思いますか?」
「薄く切って、光に透かしてみたいです。でも、もっと細かく見られる道具があったらいいなって」
「なるほど。拡大して観察する道具ですか」
「はい!」
「私は詳しくありませんが、そうした道具があれば、今まで見えなかった違いも見つかるかもしれませんね」
私は葉を見つめた。
顕微鏡。
レンズを組み合わせれば、簡単なものなら作れるかもしれない。
ただ、問題はレンズの精度だ。大きく見えるだけでは駄目で、細かな形がきちんと見えなければ意味がない。
……ガレスさんに相談してみようかな。
「ココア?」
ノエルに呼ばれて顔を上げた。
「また何か考えてるでしょ?」
「えへへ。ちょっとだけ!」
「絶対ちょっとじゃないよね」
リリアまで笑っている。
オスカー先生も微笑んだ。
「皆さん、それぞれ違うことに興味を持っているようですね」
「うん!」
「同じ庭でも、気づくことは違う。だから、見つけたことを教え合うと、自分では気づかなかったものまで見えてきます」
先生はノエルの手にある葉と、リリアが集めた草を見比べた。
「今日の授業で、皆さんもそれを確かめられたのではありませんか?」
「はい!」
私たちは声を揃えた。
「では、次はもう少し広い場所で観察してみましょうか」
「広い場所?」
「街の外です。植物だけでなく、動物や小さな生き物も見られるでしょう」
「本当!?」
私は思わず身を乗り出した。
「もちろん、セバス殿に相談し、護衛の方にも同行していただきますが」
「行きたい!」
「私も!」
ノエルが手を挙げる。
「私も、街の外の薬草を見てみたいです」
リリアも賛成した。
先生は嬉しそうにうなずいた。
「では、課外授業を計画しましょう」
「あっ!」
私は大事なことを思い出した。
「先生! お花!」
「お花?」
「植木鉢に入れるお花! まだ探してないでしょ?」
「ああ、そうでしたね」
先生が目を細めた。
「では、課外授業で花も探しましょうか」
「うん!」
ノエルが私の顔を覗き込む。
「ココア、今度は何を見つけるつもり?」
「え?」
「だって、絶対にお花だけじゃ終わらないでしょ?」
「そんなことないよ!」
「本当に?」
「……たぶん!」
ノエルが笑い、リリアも口元を押さえた。
オスカー先生まで笑っている。
「皆さん、見つけたものは何でも教えてください。知らないものを見つけたら、まずよく見て、考えて、確かめてみましょう」
「はい!」
私は元気よく返事をした。
街の外には、どんな植物があるんだろう。どんな生き物がいるんだろう。
まだ見たことのないものが、きっとたくさんある。
それに、葉の中をもっと詳しく見る方法も考えたい。
オスカー先生の授業を受けたら、やりたいことがまた増えてしまった。
……セバス先生に、研究の時間を増やしてもらえないかな。
そう考えたところで、今朝も「勉強はございますよ」と言われたことを思い出した。
「……うーん」
「ココア、どうしたの?」
「なんでもない!」
私は慌てて首を振った。
でも、やっぱり気になる。
次の授業までに、ガレスさんにレンズのことを聞いてみよう。
私は手の中の葉を、もう一度光に透かしてみた。




