第72話 届かせない
次の日。
朝食を終えると、ノートを二冊抱えて先生を探した。
一冊は、昨日ヒルダと話した町の入口について。
もう一冊は《放電》。
昨日は、条件を揃えて十回続けて小さな火花を出せた。ヒルダの前でも二回成功している。
次は距離を変えたい。
どこまで離しても放電するのか。偏りを大きくすれば距離も伸びるのか。空気の湿り気でどれくらい変わるのか。
調べたいことは、もういっぱいある。
でも、その前にやることがあった。
「先生」
「おはようございます、ココア様」
「昨日のことで相談があるの」
「昨日の、と申しますと?」
「町の入口。ヒルダのお仕事のこと」
先生が眼鏡を押し上げた。
「ほう」
「確認する人はいるけど、ちょっとでも分からないことがあるとヒルダに行くの。だから、普通のときとヒルダを呼ぶときを、もっと――」
外から大きな声が聞こえた。
「いつまで待たせるんだ!」
先生と顔を見合わせる。
町の入口の方だ。
「……行ってくる」
「ココア様、走られ――」
「今日は無理!」
返事だけして、外へ飛び出した。
◇
入口には、昨日より多くの荷車が並んでいた。
壁の工事に使う資材。店へ届ける商品。畑から運ばれてきた作物。その先頭で、一人の男が確認役へ詰め寄っている。
「だから、布だと言っているだろう!」
「届け先の確認が取れておりません。もう少しお待ちください」
「昨日までは、こんなに細かく止めなかっただろうが!」
四十歳くらいだろうか。上等な外套を着た男の後ろには、布を積んだ荷車があった。
「申し訳ありません。事前に伺っていた届け先と、今おっしゃった店が違いますので」
「違うんじゃない! 店が変わっただけだ!」
「でしたら、新しい届け先の確認を――」
「商売に遅れたら、お前が払うのか!」
怒鳴り声に、周囲の人たちが振り返る。
そこへヒルダが来た。
「どうなさいました?」
「ヒルダさん。この人、聞いていた届け先と違うところを言ってて」
「違うんじゃない! 店が変わっただけだ!」
ヒルダは商人へ向き直った。
「では、新しい届け先を確認いたします。少々お待ちくださいませ」
「まだ待たせるのか?」
「確認が取れましたら、すぐにお通しいたします」
「だから急いでいると言ってるだろ!」
男が一歩前へ出た。
ヒルダは退かない。
「申し訳ございません。しかし、確認が取れるまでは――」
「邪魔だ!」
男の手が伸びた。
ヒルダの肩へ届く――その前だった。
「――触れないでくださいませ」
ヒルダが半歩ずれた。
伸びてきた手首を取り、そのまま男の腕を下へ返す。
「痛っ!」
一瞬だった。
何をしたのか、私にはよく分からなかった。
さっきまで怒鳴っていた男が、片膝をついている。
「離せ!」
「暴れなければ痛くはございません」
「何を――!」
「ヒルダに何してるの!」
気づいたときには走っていた。
「ココア様?」
ヒルダの前まで行きかけて、止まる。
男はもう動けない。
それでも腹の奥が熱かった。
「謝って」
「は?」
「ヒルダに謝って!」
「私は急いで――」
「急いでたら、人を押していいの?」
「押してなど――」
「押そうとした!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
怪我をしたかどうかじゃない。
ヒルダなら、この人よりずっと強い。
だから大丈夫、でもない。
腹が立ったから。
邪魔だったから。
それだけで人へ手を伸ばした。
それが嫌だった。
「ココア様」
ヒルダが私を見る。
「私は大丈夫でございます」
「でも!」
「ええ。ですが、それとこれは別でございますね」
ヒルダは男へ視線を戻した。
「本日は、お帰りくださいませ」
「なんだと?」
「届け先について確認が取れておりません。加えて、確認を行う者へ手を出されました。この状態で町へお通しすることはできません」
「こんなことで商人を追い返すのか!」
「はい」
迷いはなかった。
「必要な確認にご協力いただけず、確認を行う者へ暴力を向けた方を、そのまま町へお通しすることはできません」
「ふざけるな! 誰の許可で――」
「ヒルダさん」
確認役の一人が隣へ来た。
「馬車、戻します」
もう一人も後ろへ向かう。
「俺は後ろの荷車を止めておきます」
ヒルダが二人を見る。
「お願いいたします」
昨日までなら、二人ともヒルダの指示を待っていたかもしれない。
今日は違った。
まだ決まりを作り始めたばかり。
それでも、自分たちでやることを見つけて動いている。
ヒルダが男の手を離す。
「お帰りくださいませ」
男は何かを言い返そうとしたけれど、ヒルダと集まってきた人たちを見て、最後には舌打ちして馬車へ戻った。
荷車が向きを変える。
私は黙って見送った。
腹の奥は、まだ熱い。
「ココア様」
振り返る。
「ほんとに大丈夫?」
「はい。この通りでございます」
「……よかった」
「しかし」
ヒルダが少し困った顔をする。
「先ほど、私の前へ出ようとなさいましたね?」
「……途中で止まったよ」
「止まっていただけたことには感謝いたします」
「うん」
「ですが、もしあの男が剣を抜いていたら?」
言葉が止まった。
「私はココア様をお守りできます。しかし、私より前へ出られては守りにくくなります」
「……うん」
「次からは、私の後ろへ」
「……分かった」
ヒルダの言うことは正しい。
分かっている。
それでも。
あの手がヒルダへ伸びた瞬間、私は怒ることしかできなかった。
◇
屋敷へ戻り、先生への相談を続けた。
昨日ヒルダと話したこと。
通常の確認と、判断が必要なものを分けること。
今日のような問題が起きた場合、誰が止め、誰が応援を呼び、どの段階でヒルダへ回すのか。
実際に起きたことを集めて、ヒルダが判断基準を作る。
それでも判断できないものだけ、ヒルダへ回す。
「それと、人を増やしたらお給料がいるよね?」
「当然でございますな」
「入口のお仕事は、これからもずっと続くでしょ?」
「ええ」
「だったら、この町に入るお金から出せないかな」
先生が私を見る。
「なぜ、そうお考えに?」
「町が大きくなったから増えたお仕事だから」
店も、人も、荷物も増えた。
だから入口で確認する仕事が増えた。
「町が大きくなって増えたお金を、町を守る仕事に戻せない?」
「なるほど」
先生が帳簿を開く。
「ただし、町へ入る金のすべてを自由に使えるわけではございませんぞ」
「うん。だから先生に聞いてる」
「よろしい」
先生が少し笑った。
「叔父上様の了承も必要でございます」
「それも分かってる」
「結構」
先生はしばらく数字を追った。
「最初から大人数というわけにはまいりませんが、数名であれば現在の収入から継続して支払えるでしょう」
「ほんと?」
「叔父上様の了承をいただければ、ですがな」
「じゃあ、ヒルダ少し楽になる?」
先生が顔を上げた。
「最初に気になさるのは、そちらでございますか」
「だって、それで始めたんだもん」
「左様でございましたな」
先生が笑う。
私も少しだけ嬉しくなった。
人が増えた。
店が増えた。
町へ入るお金も増えた。
そのせいで増えた仕事を、増えたお金で支える。
町が、自分で少しずつ回り始めている。
嬉しい。
それなのに、ヒルダへ伸びた手だけは、頭から離れなかった。
◇
夜。
机の上に《放電》のノートを開いた。
『距離』
『範囲』
『空気の状態』
『湿り気』
今日は距離を変えるつもりだった。
でも、始められない。
頭に浮かぶのは、青白い光じゃなかった。
ヒルダへ伸びた手。
何も起きなかった。
ヒルダは簡単に止めた。
だから大丈夫だった。
でも。
『もし、あの男が剣を抜いていたら?』
この世界には剣がある。
魔法もある。
今日の男だって、人を殺そうとしたわけじゃない。
腹を立てて、ヒルダを押そうとしただけ。
だからこそ怖い。
次も「それだけ」とは限らない。
もし、ヒルダじゃなかったら。
ノエルだったら。
リリアだったら。
先生だったら。
もし、その場に私しかいなかったら。
「……嫌だな」
誰かに勝ちたいわけじゃない。
戦いたいわけでもない。
強い電気をぶつければ、人を傷つけることはできるのかもしれない。
でも、欲しいのはそういうものじゃない。
今日、欲しかったのは、あの男を倒す力じゃなかった。
ヒルダへ伸びた手を、届かなくする力だった。
「……もうある」
顔を上げる。
「《弾く》」
お兄様の火球に干渉したことがある。
その後も研究を続けて、《弾く》は方向を選べるようになった。複数の対象へ違う方向に干渉することだって試している。
できることは増えている。
問題は、そこじゃない。
「今日だったら?」
あの男の手が伸びた瞬間。
怒った。
走った。
それだけだった。
《弾く》を使おうとは思わなかった。
「……遅い」
実験なら、対象を見る。
考える。
範囲を決める。
方向を決める。
それから使う。
でも、何かが突然飛んできたら?
見てから、どう《弾く》か考えていたら?
「間に合わない」
調べるべきなのは、威力じゃない。
もっと強くすることでもない。
「速さだ」
《放電》のノートを閉じた。
新しい紙を一枚出す。
最初に書く。
『《弾く》――護身』
少し見つめてから、線を引いて消した。
その下へ書き直す。
『《弾く》――防御』
「こっち」
倒したいんじゃない。
届かせたくない。
まずは、身体から完全に離れたもの。
飛んでくる石。
投げられた物。
魔法。
そういうものなら、《弾く》で方向を変えられるかもしれない。
人の身体へ直接使う実験はしない。
誰かが握っているものも、今は試さない。
最初は、失敗しても危なくないものから。
『反応までの時間』
『予告なし』
『方向指定』
『動く対象』
『対象を見てから発動まで』
『失敗しても危険のないもの』
書き進めて、鉛筆が止まった。
「動くもの……」
自分で投げたら、いつ来るか分かってしまう。
誰かに投げてもらう必要がある。
でも、硬いものは駄目。
当たっても怪我をしないもの。
大きさを揃えられて、速さも少しずつ変えられる。
できれば何度でも同じものを用意できる方がいい。
「……土」
すぐに一人浮かんだ。
「ノエル」
ノエルなら土魔法が使える。
小さくて柔らかい土の塊なら、当たっても危険は少ない。
最初はゆっくり。
慣れたら速くする。
方向も変える。
いつ飛ばすかも分からないようにする。
条件を一つずつ変えられる。
「これなら比べられる」
ヒルダにもいてもらおう。
私が考えているより危ないなら、止めてもらえる。
ノエルが作る。
ヒルダが見る。
私が《弾く》。
役割も分けられる。
少し考えてから、紙の最後に書いた。
『ノエルとヒルダに相談』
「よし」
明日、頼んでみよう。
ノエルなら、たぶん最初に聞く。
『つまり、ココアに土ぶつければいいの?』
「……言いそう」
想像したら、少し笑えた。
昼間から胸の奥に残っていたものが、ほんの少しだけ軽くなる。
《放電》のノートを隣へ戻す。
小さな青白い火花も、ちゃんと研究する。
急ぐ必要はない。
今できることを、一つずつ確かめればいい。
壁を作る。
入口の仕組みを作る。
守る人を増やす。
それでも足りないときのために、自分にできることも増やしておく。
誰かを倒したいわけじゃない。
次に大事な人へ何かが飛んできたとき、その人へ届く前に《弾く》。
それができればいい。
紙をノートに挟む。
明日は、ノエルに頼んでみよう。
次は――届かせない。




