第70話 パチッ
壁の試験を、毎日見に行く必要がなくなった。
グレタさんたちは、もう私が横についていなくても型枠を組み、材料を量り、混ぜ、詰めている。前に見つけた空洞や石の偏りも、どういう作業をしたときに起こりやすいのか記録され、職人同士で直せるようになってきた。
昨日なんて、私が《エレメントサイト》を使う前にグレタさんが職人を止めた。
『そこ、一度に入れすぎだ。分けて詰めろ』
直したあとで見てみると、大きな空洞はほとんど残っていなかった。
少しだけ寂しい。
でも、それ以上に嬉しかった。
私がいなくても作れるようになる。
それは、ちゃんと前に進んでいるということだ。
そして。
「……時間ができた」
久しぶりに、机いっぱいに実験記録を広げた。
先生の火。ヒルダの水。ノエルの土。リリアの風。
その中から、先生の火についてまとめた紙を抜き出す。
以前、先生の魔法が炎になる前に、途中にある何かを《切った》。
先生は魔力を使った。
なのに、火は出なかった。
一方で私は、魔力を使わなくても火を起こせる。
燃えるもの。
酸素。
そして、反応を始めるための熱。
「同じ火なのに、通る道が違う」
魔法と同じことができなくてもいい。
同じ結果へ行く道が、一つしかないわけじゃない。
そこで、前の実験記録に目が止まった。
先生の火を調べたあと、《弾く》を一度にたくさん使ったときの記録。
違う対象。
違う方向。
同時。
三次元。
頭が痛くなるほど無理をした、その最後。
『小さな火花』
「……これ」
あのときは、何が起きたのか分からなかった。
狙って出したものでもない。
でも、火花そのものなら知っている。
「静電気」
冬に服を脱いだとき。
髪を梳かしたとき。
金属に触れたとき。
パチッ、と指先に走る小さな痛み。
電荷が偏り、その差が大きくなれば放電する。
前の世界では当たり前に知っていたことだ。
「じゃあ、その偏りを作れたら?」
すぐに首を振る。
「違う。まず、見えるか」
電子があることは知っている。
電荷も、電位差も、放電も知っている。
でも、知っていることと《エレメントサイト》で見えることは別だ。
今まで私が見てきたのは元素と結合。
なら、その先は?
椅子に座り直し、机の上へ両手を置いた。
目を閉じる。
「すいへー……りーべー……」
いつもの言葉を、ゆっくり口にする。
水素。
ヘリウム。
リチウム。
ベリリウム。
ホウ素。
炭素。
窒素。
酸素。
フッ素。
ネオン。
いつもなら、ここで十分だった。
目を開く。
元素が見える。
結びつきが見える。
でも今日は、そこで止めない。
「なーまがる……しっぷす、くらーくか……」
ナトリウム。
マグネシウム。
アルミニウム。
ケイ素。
リン。
硫黄。
塩素。
アルゴン。
カリウム。
カルシウム。
前の世界で何度も繰り返した言葉を、一つずつ辿っていく。
これは呪文じゃない。
魔法を使うための言葉でもない。
私が知っているものを、一つずつ思い出すための言葉だ。
「もっと……」
空気を見る。
窒素。
酸素。
ほかにも少し。
でも、見たいのは元素じゃない。
原子。
結合。
その結合に関わっているもの。
「電子……」
さらに意識を細くする。
見えない。
「……そりゃそうだよね」
思わず笑った。
名前を知っているだけで、急に電子一個ずつが見えるようになるなら苦労しない。
ノートに書く。
『通常――元素、結合まで』
『さらに深く見る――電子そのものは確認できない』
でも、ここで終わるつもりはない。
電子一個を見る必要はないかもしれない。
欲しいのは、電荷の偏りだ。
「同じじゃなくすればいい」
空気の中の小さな範囲を二つ決める。
右と左。
元素を動かしたいわけじゃない。
分子を飛ばしたいわけでもない。
結合を《切る》わけでもない。
もっと小さく。
結合に関わる何かへ、意識を絞る。
「……《弾く》」
何も起きなかった。
見えるものも変わらない。
『広い範囲――変化なし』
「じゃあ、もっと小さく」
範囲を狭める。
《弾く》。
変わらない。
『範囲を縮小――変化なし』
「まだ大きい?」
さらに狭くする。
今まで元素を選んでいたときよりも、ずっと細かく。
見えているものではなく、結合の中にあるはずのものへ意識を向ける。
「すいへー……りーべー……なーまがる……」
もう一度。
《弾く》。
「…………」
何も起きない。
でも。
「今、何か……」
目を凝らす。
右と左。
さっきまで同じように見えていた場所に、ほんのわずかな違いがある。
何が違うのかは分からない。
電子が移動した、と決めることもできない。
ただ、違う。
ノートへ書く。
『極小範囲――変化あり?』
『左右に微小な偏り?』
疑問符をつける。
「もう一回」
同じ場所。
同じ方向。
今度はさっきより少しだけ強く意識する。
《弾く》。
違いが大きくなった。
「……やっぱり」
『同条件――偏り増加』
『放電なし』
もう一度。
《弾く》。
『偏り増加』
『放電なし』
「回数じゃないのかな」
鉛筆の先で紙を叩く。
偏りがあるだけでは、何も起こらない。
放電するには、その差が十分に大きくならなければならない。
「だったら……」
回数を数えるのをやめた。
見る。
少しだけ《弾く》。
また見る。
差が大きくなったら、止める。
もう一度。
見る。
まだ。
もう少し。
「……ここ?」
さらに、ほんの少しだけ。
《弾く》。
パチッ。
「ひゃっ!」
椅子の上で跳ねた。
青白い光が、一瞬だけ空間を走った。
「…………」
動けなかった。
何も燃えていない。
煙もない。
さっきまで見えていた偏りだけが、小さくなっている。
「今の……」
雷。
そう言いかけて、やめた。
「違う」
雷なんて呼ぶには、小さすぎる。
ほんの一瞬。
パチッ、と光っただけ。
「……放電」
鉛筆を取った。
『放電――一回』
『極小範囲に干渉』
『偏りを段階的に増加』
『一定以上?――青白い光、音あり』
『放電後――偏り減少』
少し考えて、書き足す。
『電子を直接動かしたかは不明』
「まだ一回」
偶然かもしれない。
別の原因かもしれない。
もう一度、最初から。
偏りが小さくなっていることを確認する。
同じくらいの範囲。
同じ方向。
少しずつ《弾く》。
一回。
見る。
二回。
見る。
三回。
「……さっきと違う」
同じ回数なのに、偏りが小さい。
そのまま続ける。
もう一度。
パチッ。
「……!」
二回目。
すぐに書く。
『二回目――成功』
『必要回数は一定ではない』
『《弾く》回数ではなく、できた偏りの大きさが重要?』
もう一度。
今度は途中で偏りを大きくしすぎないようにする。
失敗。
『三回目――放電なし』
「なんで?」
少し考える。
空気。
距離。
湿り気。
範囲。
私が同じつもりでも、同じになっていないものはいくらでもある。
それに気づいた途端、笑ってしまった。
「いっぱいある」
調べることが、いっぱいある。
ノートへ続ける。
『偏りの大きさと放電の関係』
『距離』
『空気の状態』
『湿り気』
『範囲』
『再現性――低い』
そして、その下に線を引いた。
『見えている偏りを、私以外でも比較できる方法が必要』
壁と同じだ。
私にしか分からないままでは、まだ途中。
見える。
できる。
それだけじゃ足りない。
何度やっても同じようにできて、どうして起きるのかを確かめて、私がいなくても比べられるようにする。
「よし」
もう一度やろうとして、手が止まった。
ノートに書いた文字を見る。
『放電』
小さな火花。
今は、それだけ。
でも、その言葉の向こうにあるものを、私は知っている。
電気。
「…………」
胸が高鳴った。
前の世界では、どこにでもあった。
明かりにも。
道具にも。
遠く離れた場所へ何かを伝えることにも。
そして、もっとずっと先には――。
昨日、山を見ながら途中で止めた想像が、一瞬だけ頭をよぎった。
「……いや」
慌てて首を振る。
「まだ早い」
昨日も同じことを言った気がする。
思わず笑った。
今できるのは、パチッと小さな光を出すことだけだ。
それすら、三回やって二回しか成功していない。
なのに。
「……楽しみ」
早く続きを調べたい。
今度は範囲を揃える方法を考えよう。
偏りも、私の見た感じだけじゃなくて比べられるようにしたい。
それができたら、距離も変えて――。
「ココア様」
「ひゃあっ!」
振り返る。
扉のところにヒルダが立っていた。
「お食事のお時間です」
「……もう?」
「とっくに、でございます」
時計を見る。
「……ほんとだ」
「何をなさっていたのです?」
机を見る。
実験記録を見る。
ヒルダを見る。
「まだ秘密」
「まあ」
「三回やって二回しかできてないから」
「何をなさったのかは存じませんが、十分ではございませんか?」
「駄目だよ。次に同じようにできるか分からないもん」
ちゃんとできるようになってから見せたい。
今見せて、何も起きなかったら悔しい。
「十回」
「はい?」
「十回やって、十回できたら見せる」
ノートの最後に書き足す。
『次――十回連続で再現』
ヒルダが覗き込もうとしたので、慌てて閉じた。
「秘密!」
「まだ何も見ておりません」
「ほんと?」
「ええ」
「じゃあ、できたら最初にヒルダに見せる」
一瞬だけ、ヒルダの表情が柔らかくなった。
「楽しみにしております」
「うん!」
椅子から降りる。
早く食べて戻ってこよう。
そう思ったところで、ヒルダが先に言った。
「お食事は、ゆっくり召し上がってくださいませ」
「……まだ何も言ってないよ?」
「七年もお側におりますので」
「それ、便利すぎない?」
「ココア様ほどではございません」
「どういう意味?」
「参りましょう」
「誤魔化した」
ヒルダを追って部屋を出る。
机の上には、ノートだけが残った。
ほんの一瞬。
パチッ、と光っただけ。
まだ誰にも見せられない、小さな小さな成功。
でも私は知っている。
小さな発見が、ずっと先で何につながるのかは、最初には分からない。
だから研究は面白い。
まずは十回。
その先のことは、それから考えよう。




