第67話 私のお金
「先生?」
「はい」
「私が自由に使えるお金って、今いくらあるの?」
朝食を終えてすぐ、先生の部屋へ行って聞いた。
机の上には、昨日作った小さな灰色の壁と町の地図。それから、先生が朝からまとめていた数字の並んだ紙が置かれている。
先生が眼鏡の奥から私を見た。
「自由に使える、と申しますと?」
「お店の売上じゃなくて、私の取り分。材料を買うお金とか、人に払うお金とか、次に作るためのお金は抜いて」
「研究費として積み立てている分でございますな」
「うん。それ」
先生が帳簿を開き、何枚かめくった。
「かなり貯まりましたぞ」
「これに足りる?」
「これ、とは?」
町の地図を指した。昨日、グレタさんが引いた長い線。
「町を囲うのに」
先生は帳簿から顔を上げると、地図の横に置かれた紙へ目を移した。
「まだ概算でございます。壁の高さも厚さも決まっておりませんし、門の数、型枠、材料の運搬、人員――詰めなければならないものはいくらでもございます」
「うん。だから概算でいいよ。足りそう?」
「足りませんな」
「全部使っても?」
「届きません」
「半分くらい?」
「それも難しいでしょうな」
「……そんなにかかるんだ」
考えてみれば当然だった。
地図では一本の線でも、その長さ全部に材料がいる。型枠がいる。運ぶ人も、作る人も必要になる。
「じゃあ、使える分は全部入れて」
先生の指が止まった。
「ココア様。それは、研究のために貯めてこられたお金でございますぞ」
「うん」
「よろしいので?」
「いいよ」
迷う理由はなかった。
「また稼げばいいから」
「研究費を、でございますか?」
「うん」
研究したいことなら、まだいくらでもある。昨日作ったものだって、分からないことだらけだ。
でも、研究費はまた貯められる。
「人は戻せないでしょ?」
先生が黙った。
この町には、研究費を稼ぐために来たわけじゃない。
でも、ここへ来てから研究するためのお金が欲しくなって、眼鏡を作って、塩を売って、石鹸も作った。
そうしているうちに、人が増えた。
一緒に考えてくれる人。一緒に作ってくれる人。買ってくれる人。笑ってくれる人。
私の誕生日を祝ってくれる人までできた。
「町を守れたら、またここで研究できるし。だから使って」
「全額は認められませんな」
「必要な運転資金は残すよ」
「そういう意味ではございません」
先生が地図を指した。
「これは商品開発ではなく、町の防衛設備です。試作や研究にココア様のお金を使うのであれば筋は通ります。しかし、本工事までお一人で負担するものではございません」
「それは分かってる。でも、出せるところは出したい」
「町は、ココア様お一人のものではございませんぞ」
先生を見る。
「ここに暮らす者たちの町でもございます。でしたら、守る責任までお一人で背負う必要はございません」
地図に目を落とした。
長い線の中には、家がある。店がある。宿がある。工房がある。
そこに、みんなが暮らしている。
「……そっか」
「はい」
「私のお金じゃ足りないんじゃなくて、最初から私のお金だけで作るものじゃないんだ」
先生が少しだけ目を細めた。
「左様でございます」
「……みんなで守るものなんだ」
「そのために、まず領主がおります」
「お父様?」
「はい」
そのとき、扉が叩かれた。
入ってきたのは叔父様とヒルダだった。
「朝から何の相談だ?」
「壁のお金」
「もうそこまで行ったのか」
「作るなら必要でしょ?」
「まあな」
叔父様は地図の前に座ると、先生から紙を受け取り、ざっと目を通した。
「まだかなり粗いな」
「グレタ殿に規模を詰めていただかなければ、これ以上は難しいですな」
「叔父様。領地のお金は使える?」
叔父様は少しだけ考えてから、紙を机へ置いた。
「金がないわけじゃない。ただ、俺が勝手に使っていい金じゃない」
「町の防衛だから?」
「ああ。水路や道の補修なら、俺の権限で動かせる範囲もある。だが、町を囲う恒久的な防衛設備となれば別だ」
「領主の判断がいる」
「そういうことだ」
そこまで分かれば話は早い。
「じゃあ、お父様に相談しよう」
「ああ。そのつもりだ」
叔父様が机の端に置かれた灰色の試験体を見る。
「ただし、金の話だけじゃないぞ」
「分かってる」
私も試験体へ目を向けた。
昨日、初めてこの世界で形になったもの。
「これを使って町を囲ったら、もう私だけが知ってる技術じゃなくなる」
「ああ」
大きな壁を造るなら、大勢の人が必要になる。
材料を集める人。運ぶ人。混ぜる人。型を作る人。
作り方を見て、覚える人だって出てくる。
「それに、町の壁が作れるなら……」
「城壁や砦にも使えるかもしれん」
叔父様が続けた。
「うん」
部屋の空気が少しだけ変わった。
便利だから使う。
それだけでは済まない。
だから、今まで出さなかった。
「お父様にも見てもらわないとね」
「そうだな。使う場所も、広め方も含めてな」
そこでヒルダが口を開いた。
「ココア様。わたくしにも、お役目をいただけますか?」
「お役目?」
「はい」
ヒルダが地図を見る。
「壁を造っても、それだけで町を守れるわけではございません。入口で人を確認する者も、夜間に巡回する者も必要になります」
「うん」
「まずは手伝っていただけそうな方を探します。人数が揃えば、巡回する場所や、何かあった場合の連絡方法も決めなければなりません」
昨日までなら、ヒルダは私の隣にいた。
私がどこへ行くのか。何をするのか。危なくないか。
ずっと、それを見てくれていた。
でも今は、地図を見ている。
私じゃなくて、町を。
「……ヒルダも、この町を守りたい?」
「はい」
「私がいるから?」
ヒルダは少しだけ考えた。
「それだけではございません」
「じゃあ?」
「わたくしも、この町で暮らしておりますので」
胸の奥が温かくなった。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、お願い」
「承知いたしました」
昨日、私はみんなを守りたいと思った。
私を大事にしてくれた人たちを。ここへ来てくれた人たちを。
でも、私だけじゃなかった。
「先生は?」
「はい?」
「先生は何するの?」
先生が眼鏡を押し上げた。
「お金を集めてまいります」
「え?」
「正確には、必要な費用と、どこからどれだけ出せるのかを整理いたします」
「……先生らしい」
「褒め言葉として受け取っておきましょう」
「叔父様は?」
「領地の金と土地と、お前の父親の相手だ」
「お父様の相手って何?」
「来れば分かる」
「変なこと言わないでよ?」
「お前にだけは言われたくない」
「なんで!」
ヒルダが口元を押さえ、先生まで眼鏡を押し上げながら笑っている。
私も笑った。
私のお金だけじゃない。
ヒルダにはヒルダのできることがある。先生にも、叔父様にも、グレタさんにもある。
やることは違っても、向いている先は同じだった。
「……ありがとう」
先生が目を瞬いた。
ヒルダは微笑んだ。
叔父様だけが腕を組む。
「俺にもか?」
「うん」
「珍しいな」
「やっぱり返して」
「もう遅い」
◇
「兄貴には俺から連絡する」
叔父様が話を戻した。
「いつ来られる?」
「急がせても数日はかかるだろうな。その間にグレタと工事の規模を詰める。お前は試験体と、分かっていることをまとめておけ」
「うん」
「兄貴に見せるんだからな」
机の端を見る。
昨日作った、小さな灰色の壁。
表面に少しだけ土がついていた。
手に取って、袖で擦る。
「ココア様?」
「なに?」
「何をなさっているので?」
「汚れてるから」
「試験体でございますぞ」
「分かってるよ。でも、お父様に見せるんだから、きれいな方がいいでしょ」
ヒルダが私を見る。
「褒めていただきたいのでございますか?」
「違うよ」
即答してから、試験体を見る。
「……ちゃんと見てもらいたいだけ」
「左様でございますか」
「うん」
「では、褒めていただかなくても?」
「それは……褒めてもらえたら、嬉しいけど」
叔父様が吹き出した。
「なに?」
「いや」
「笑ったでしょ」
「笑ってない」
「笑ったよ!」
腹は立ったけど、昨日みたいな腹の立ち方じゃなかった。
◇
それから数日、町はいつも通り動いていたけれど、私たちは少しだけ忙しくなった。
グレタさんは壁を通す場所を調べ、叔父様は道や土地との兼ね合いを確認する。ヒルダは夜の見回りを手伝ってくれそうな人たちに声をかけ、先生は必要になる材料と人手を数字にしていった。
私は、試験体と記録をまとめた。
分かっていることと、まだ分からないこと。できることと、できるかもしれないことは混ぜない。
小さな試験体ができたからといって、本物の壁まで同じように造れると証明されたわけじゃない。何年もつのか、雨や冬を繰り返してどうなるのか、大きくしたときにも同じ品質で造れるのか。それはこれから確かめなければならない。
もう一枚、別の紙も用意した。
この技術を使うなら、誰がどこまで知ることになるのか。
材料を集める人。
混ぜる人。
運ぶ人。
型を作る人。
実際に大きな壁を造れば、私一人の頭の中へ戻すことはできない。
だから、広げる前に決めておく必要がある。
どこで使うのか。
誰に教えるのか。
どこまで広げるのか。
そこまで書いて、紙を閉じた。
使い道を思いつくことと、本当に使っていいかを決めることは違う。
それも含めて、お父様に見てもらう。
◇
「来たぞ」
叔父様の声で外へ出た。
道の向こうから、お父様の馬車が近づいてくる。
私は試験体を抱えて屋敷の前に立った。
なぜか、少し緊張する。
契約の話をするからじゃない。
お金の話をするからでもない。
お父様が、この町を見る。
それが、少し怖かった。
馬車が止まり、扉が開く。
降りてきたお父様に声をかけた。
「お父様」
「ああ」
短い返事。
でも、お父様はすぐには私を見なかった。
町を見ていた。
店や宿。行き交う荷車。新しく建った家。工房から上がる煙。道を走っていく子供たち。
前に来たときとは、もう違う。
お父様はしばらく何も言わなかった。
「……増えたな」
「うん」
それだけなのに、少しだけ胸が弾んだ。
やがて、お父様の視線が私の腕の中へ落ちる。
「それは?」
抱えていた灰色の試験体を見る。
何度も説明する練習をしていた。
材料のこと。型枠のこと。水に強い結合材のこと。まだ分からないこと。
そして、この技術を外へ出すこと。
ちゃんと説明するつもりだった。
でも、最初に出たのは違う言葉だった。
「お父様」
「なんだ」
灰色の試験体を少し持ち上げる。
「私、町を守るものを作ったの」
お父様の目が、試験体へ向いた。




