第64話 王都から
「王都から客が来るぞ」
叔父様がそう言ったのは、あの聞きすぎる男がいなくなってから十日ほど経った朝だった。
「王都?」
「ああ」
「叔父様に?」
「違う。お前にだ」
「私?」
思い当たるものを探していると、叔父様が笑った。
「正確には、お前の商品にな」
「あ」
分かった。
「身体用と、髪に使うもの?」
「そうだ」
「王都まで行ったの?」
「商品より噂の方が先に着いたらしい」
近くの町から問い合わせが来るようになって、もうしばらく経つ。
売る量も少しずつ増えた。
でも、こっちで使う人の分は減らしていない。
作る人たちも慣れて、最初より安定して同じものを作れるようになってきた。
それでも、王都は遠い。
「すごい」
口に出したら、急に嬉しくなった。
「先生、王都だって」
「聞いております」
「売れるかな?」
「まだ商談も始まっておりませんぞ」
「でも、王都から来るんでしょ?」
「来ることと、売れることは別でございます」
「先生、嬉しくないの?」
「嬉しさで契約書を読むことはできませんので」
「……先生らしい」
「ココア様も、そのようになさってくださいませ」
「はーい」
返事をすると、叔父様が笑った。
「その返事をする奴は、大抵分かってないぞ」
「分かってるもん」
王都。
何人住んでいるんだろう。
何個売れるんだろう。
もし本当に売れたら、研究費も増える。
欲しい道具が買える。
試したいことも増やせる。
考えていたら、先生に見られていた。
「何をお考えで?」
「研究費」
「やはり」
どうして分かったんだろう。
◇
王都から来た商人は、前に聞き回っていた男とは違った。
馬車も違う。
服も違う。
五十歳くらいだろうか。きれいに整えた髪に、仕立てのいい上着。指には大きな石のついた指輪がある。
王都の《バルガス商会》会頭、ヴィクトル・バルガス。
貴族向けの商品を多く扱っている、大きな商会らしい。
その後ろには二人の男がいた。
一人が箱を持ち、もう一人が書類を抱えている。
私は先生と叔父様と一緒に応接室で待っていた。
後ろにはヒルダがいる。
バルガスは部屋へ入ると、最初に叔父様を見た。
次に先生。
最後に私を見た。
順番が、なんとなく分かった。
「これはこれは。ココア・フォン・アルヴェイン様でいらっしゃいますな」
「はい」
「お噂はかねがね」
にこやかに笑う。
「七歳にして、このような商品をお考えになるとは。実にお見事です」
「ありがとう」
「さぞ、お勉強がお好きなのでしょう」
「研究が好き」
「ほう、研究」
微笑ましいものを見るように笑った。
たぶん、あまり信じていない。
バルガスはすぐ叔父様へ向き直った。
「それでは、早速商談を――」
「考えたのはココアだ」
叔父様が言った。
バルガスが止まった。
「もちろん、承知しております」
「なら、本人に話してやってくれ」
「……左様ですか」
もう一度、私を見る。
ほんの少しだけ間があった。
「では、お嬢様にも分かりやすいよう、ご説明いたしましょう」
「普通でいいよ」
「はい?」
「先生と叔父様に話すのと同じでいい」
バルガスは一瞬黙ったあと、笑った。
「これは失礼いたしました」
でも、声はまだ少しだけ優しかった。
子供に話すときの声だった。
後ろの男に合図する。
箱が机へ置かれた。
開けると、中には見覚えのある容器が入っていた。
「それ、うちのだ」
「ええ。王都まで持ち帰らせました」
「持ち帰らせた?」
「事前に少々、調査をさせていただきましてね」
「あ」
分かった。
「いっぱい聞く人」
バルガスの眉がわずかに動いた。
叔父様が横を向いた。
「……何か失礼がございましたかな」
「質問が多かった」
「熱心な者でして」
「先生も聞きすぎだって言ってたよ」
「ココア様」
「言ったよね?」
「その点については同感だ、と申し上げました」
「同じだよ」
「微妙に違いますな」
バルガスが小さく笑った。
「なるほど。なかなかしっかりしたお嬢様だ」
やっぱり子供扱いだ。
「それで?」
「はい?」
「調べたんでしょ?」
「ええ」
「どうだったの?」
「これは失礼」
バルガスが座り直した。
「結論から申し上げれば、素晴らしい商品です」
「ほんと?」
「ええ。特に女性からの評判がよろしい。再び購入する者もいる。そして――」
身体用の容器を持ち上げた。
「安すぎます」
「高くしたよ?」
「この土地では、そうなのでしょうな」
言い方が少し引っかかった。
「王都では違うの?」
「まったく違います」
バルガスは私ではなく、先生へ向かって言った。
「現在の十倍でも売れるでしょう」
「十倍?」
思わず聞き返した。
バルガスが私を見る。
「驚かれましたかな?」
「うん。十倍で買う人がいることに」
「王都とは、そういう場所なのですよ」
また、教えてくれる声だった。
「希少なもの、美しいもの、他人が持っていないもの。そうした品には、驚くほどの値がつくのです」
「先生、本当に売れる?」
「売り方次第では、不可能ではないでしょうな」
前の世界でも同じだった。
中身だけで値段が決まるわけじゃない。
ブランド。
容器。
売る場所。
希少性。
買う人が違えば、求められるものも変わる。
「だったら、王都用を別にした方がいいね」
「別に?」
バルガスが私を見る。
「瓶を変えるの。今のは普段使うためのだから。もっときれいな瓶にして、香りも王都用を作る」
「……ほう」
「箱もあった方がいいと思う。身体用と髪用を一緒に入れて、贈り物にできるようにするの」
バルガスの笑顔が少し止まった。
「こっちで売るものと見た目も香りも変えたら、王都では別の商品として売れるでしょ?」
「誰かに教わったのですかな?」
「何を?」
「今のお話を」
「今考えたよ?」
バルガスが先生を見る。
先生は眼鏡を押し上げただけだった。
「……なるほど」
さっきまでと少しだけ声が違った。
「大変、面白いお考えです」
「王都で高く売れるなら、高く売っていいと思う」
「ほう」
「研究費も増えるし」
「ココア様」
「大事だよ?」
「存じております」
叔父様が笑った。
バルガスも笑ったけれど、今度は私を少し長く見ていた。
「では、話を進めましょう」
後ろの男が書類を机へ置いた。
「こちらが我々からのご提案です」
バルガスは書類を先生の前へ差し出した。
私は手を伸ばした。
「あ」
バルガスの手が一瞬止まる。
「私が読む」
「もちろん、お嬢様にも後ほど――」
「今読む」
書類を取った。
最初に見るのは金額じゃない。
何を渡す代わりに、その金額をもらうのか。
そこを見ないと意味がない。
王都における独占販売。
契約期間。
最低買い取り数量。
買い取り価格。
ここまでは分かる。
ページをめくる。
近隣地域への販売制限。
領内での一般販売終了。
製造した対象商品の全量納入。
読む速度を落とした。
「……これ、王都だけじゃないね」
バルガスが私を見る。
「何がでしょう?」
「独占」
書類を机へ置かず、そのまま読む。
「近くの町にも売れなくなる。ここの店にも置けなくなる。作った分は全部バルガス商会に渡す」
バルガスが一瞬黙った。
「よくお読みになりましたな」
「書いてあるから」
「ですが、それは――」
「まだある」
次のページ。
製法。
配合。
工程。
使用原料。
品質管理。
改良時の報告。
「作り方も全部教えるんだ」
「品質を保つために必要です」
「全部?」
「必要な範囲でございます」
「再現できるところまで?」
「……ええ」
「それ、全部だよね?」
叔父様の口元が少し動いた。
私は次を読む。
類似商品。
改良品。
派生商品。
第三者への販売および製法開示の禁止。
そこで止まった。
「この『派生商品』って何?」
「現在の商品を基に作られたものです」
「どこまで?」
「と申しますと?」
「香りを変えたら?」
「対象となるでしょうな」
「油を変えたら?」
「用途が同じならば」
「髪に使う方を改良したら?」
「当然、対象です」
「じゃあ、身体用から別のものを作ったら?」
「内容によります」
「誰が決めるの?」
バルガスが少し黙った。
「その際に協議すればよろしいでしょう」
「契約したあとに?」
「ええ」
「それ、駄目じゃない?」
バルガスの笑顔が少し薄くなった。
「お嬢様」
「なに?」
「契約というものは、将来起こり得るすべてを最初から書けるものではありません」
「それは分かるよ」
だからこそ困る。
「でも、どこまでそっちのものになるか決めないまま、あとで作るものまで契約に入れるのは嫌」
バルガスが黙った。
「これ、今の商品を売る権利だけじゃないよね」
契約書を指で叩く。
「私がこれから作るものまで押さえたいんでしょ?」
今度は、すぐに返事が来なかった。
バルガスの目が変わった。
でも、次に出たのは感心したような笑いだった。
「なるほど。実に聡明なお嬢様だ」
やっぱり。
まだ、そこなんだ。
「先生」
「はい」
「ほかにある?」
先生が書類を取った。
「製造数量について、先方にかなり強い決定権がございますな。また、こちらからの中途解約には高額な違約金が設定されております」
「向こうからは?」
「一定条件で解除可能です」
「こっちは簡単にやめられないのに?」
「左様でございます」
「嫌な契約」
バルガスが苦笑した。
「お嬢様には少々難しい部分もありましょう。これはセバス殿と改めて――」
「難しくないよ」
バルガスが止まった。
「そっちだけ逃げやすくて、こっちは逃げにくいんでしょ?」
「そのような単純な――」
「違うの?」
バルガスは答えなかった。
私は最初のページへ戻った。
そこで初めて金額を見る。
大きい。
本当に大きい。
「先生。これ、研究費だとどれくらい?」
「現在の使い方なら、数年はかなり自由が利くでしょうな」
「数年……」
欲しい。
それは変わらない。
欲しい道具がある。
試したいこともある。
失敗しても、もう一回試せる。
「……欲しいなあ」
「ココア様」
「分かってる。欲しいのと、契約するのは別」
「それなら結構でございます」
バルガスが笑った。
「子供らしいところもおありで安心いたしました」
なんだろう。
さっきから、少しずつ腹が立つ。
「でしたら、何が問題なのですかな?」
「いっぱいあるよ?」
叔父様が横を向いた。
「まず、近くの町に売るのをやめるのは嫌」
「王都で高級品として扱うためです」
「王都用を別にすればいいでしょ?」
「先ほどのお話ですな」
「うん。瓶を変える。箱を作る。香りも変える。もっといい材料を使ってもいい。王都の人が欲しいものを王都用に作ればいい」
「ですが、同じ製法の商品が安価に流通していると知られれば、高級品としての価値を損ないます」
「王都用をもっと良くすれば?」
「そういう問題ではないのです」
「どういう問題?」
バルガスは少し困ったように笑った。
「お嬢様には、まだ市場というものがお分かりにならないかもしれませんが――」
「分かるように説明して」
笑顔が止まった。
「……同じ技術で作られた品が、地方で誰にでも買える価格で流通している。その事実自体が、我々には好ましくないのです」
「なんで?」
「希少性が失われます」
「王都用は違う商品にするって言ったよ?」
「それでは十分ではありません」
そこで分かった。
「……高く売りたいんじゃないんだ」
「はい?」
「安く売る人をいなくしたいんだ」
部屋が静かになった。
バルガスの表情が変わった。
「市場を守る、と申し上げていただきたい」
「買う人から見たら同じだよ」
「商売とは、それほど単純なものではございません」
「そうかもしれないね」
私は契約書を見る。
「でも、この契約が何をするものかは分かるよ」
作ったものを全部渡す。
ここでは売れない。
近くの町にも売れない。
作り方も渡す。
これから作る似たものまで縛られる。
代わりに、大きなお金をもらう。
分からないことはない。
「作ってる人は、自分で買えるの?」
「契約後は一般販売を終了していただきます」
「じゃあ、買えないんだ」
「従来の石鹸がございます」
「それ、関係ないよね?」
「お嬢様」
声が変わった。
さっきより少しだけ低い。
「製造に携わる者には、今まで以上の仕事が生まれます。収入も増える。この土地にとっても大きな利益となるのです」
「仕事が増えるのはいいよ」
「でしたら――」
「でも、自分たちが作ったものを買えなくする必要はないよね?」
バルガスは息を吐いた。
今度は先生を見た。
「セバス殿」
「はい」
「お嬢様は非常に聡明でいらっしゃる。しかし、商売には感情だけでは判断できぬ部分がございます」
私じゃなくなった。
先生に話している。
「この契約金。そして継続的な買い取り。領地にもたらす利益を考えれば、どちらを選ぶべきかは明白でしょう」
「私に聞いてたんじゃないの?」
バルガスが私を見る。
「もちろんでございます。ただ、最終的な契約となれば、大人同士で詰めるべき部分もございますので」
ああ。
そういうことか。
私が契約書を読めたのは認める。
質問できたのも認める。
でも最後に決めるのは大人。
そう思ってるんだ。
「先生」
「はい」
「この人、私が嫌って言っても、先生がいいって言ったら契約できると思ってる?」
先生が眼鏡を押し上げた。
「そのように見受けられますな」
バルガスの顔から、初めて笑顔が消えた。
「セバス殿。私はそのような――」
「違うの?」
私が聞いた。
「……お嬢様」
「じゃあ、私と話して」
バルガスが黙る。
「これ、私が考えた商品だから」
「もちろん存じております」
「じゃあ、先生じゃなくて私に説明して」
しばらくして、バルガスは私へ向き直った。
「よろしいでしょう」
でも、その顔にはまだ残っていた。
賢い子供を相手にしている顔。
「では申し上げます。この商品には、お嬢様がお考えになっている以上の価値がございます」
「うん」
「王都へ持っていけば、この土地で売る何倍もの利益を生む。ここだけで消費させておくには、あまりにも惜しい」
「……消費させておく?」
「ええ」
バルガスは机の上の身体用を手に取った。
「このような田舎で使わせておくには、あまりにも惜しい商品です」
「使わせておく?」
「お嬢様には少々耳の痛い話かもしれませんが、商品の価値とは、それを最も高く買える者のところへ届けてこそ――」
「それ」
私はバルガスが持っている容器を指した。
「ここで作ったんだよ」
「存じております」
「違う」
ヒルダが最初に欲しいと言った。
リリアが毎日「できた?」と聞きに来た。
知らない女の人が、初めてお金を払って買ってくれた。
前と同じものをください、と戻ってきた人もいた。
作る人たちは、何度も同じ条件で作れるようになった。
「それを作ってる人たちも、ここで使ってるんだよ」
「ですから、製造者には十分な対価を――」
「使わせておくんじゃない」
バルガスの言葉を止めた。
「欲しいから作って、欲しい人が買ってるの」
契約書の上に手を置いた。
数年分の研究費。
欲しい。
今でも欲しい。
でも。
「それを、そっちが高く売りたいからやめろって言ってるんでしょ?」
バルガスは私を見た。
その目から、最初に部屋へ入ってきたときの笑いは消えていた。
それでもまだ。
私を対等な商売相手として見る目には、なっていなかった。




