第54話 知らない街
「……ここ、どこ?」
思わず立ち止まった。
隣を歩いていたノエルも止まり、怪訝そうにこちらを見る。
「何言ってるの?」
「いや、ここ……」
「いつもの道じゃん」
「そうなんだけど」
畑を見て回った帰り道だった。
何度も通っているはずなのに、知らない場所みたいに見える。
道の右側には、同じ形の家が並んでいた。まだ建てている途中の家もあり、その向こうでは、新しく来た人たちが洗濯物を干している。
左側には店がある。
前にできた店だけじゃない。布や服を並べた新しい店までできていた。
少し離れた場所からは窯の煙が上がり、荷車が二台続けて通っていく。その脇を、大きな籠を抱えた女の人が歩いていた。
知らない人だった。
「あの人、誰?」
「知らない」
「ノエルも?」
「知らない人くらいいるよ」
「前はいなかったよ?」
「人増えたもん」
簡単に言われた。
そのとき、前から子供たちが走ってきた。
「待って!」
「そっち行った!」
「捕まえて!」
三人いる。
そのうち二人には見覚えがあった。この前、職人さんと一緒に引っ越してきた七歳と五歳の姉妹だ。
でも、もう一人は知らない。
三人は私たちの横を駆け抜け、そのまま家の間へ消えていった。
「……遊んでる」
「子供だからね」
「もう友達できたんだ」
「ココアより早かったね」
「私にもいるよ!」
「誰?」
「ノエル」
「一人じゃん」
「リリアもいる!」
「リリアは?」
「……たぶん」
「たぶんなんだ」
笑われた。
でも、少し嬉しかった。
あの姉妹は、ここへ来たばかりだった。それなのに、もう一緒に走る相手がいる。
新しい家ができたとき、家族が一緒に暮らせることが嬉しかった。
でも、暮らすって、それだけじゃないらしい。
家の外でも、少しずつその人の生活ができていく。
道の向こうから、今度は見覚えのある二人が歩いてきた。
ヒルダとグレタさんだ。
二人とも地図を持っている。
「ヒルダ!」
呼ぶと、ヒルダがこちらを向いた。
「ココア様」
「何してるの?」
「街道の確認でございます」
「まだ?」
「人の出入りは一日だけ見ても分かりませんので」
グレタさんが地図を広げた。
「詰所を置くなら、荷車が一番増える時間も見とかねえとな。朝と夕方じゃ流れも違う」
「もう場所決まった?」
「だいたいな」
地図を覗こうと近づくと、ヒルダの手が額の前に出た。
「ココア様」
「なに?」
「近いです」
「見たい」
「後ほどお見せいたします」
「今でもいいよ?」
「荷車が参ります」
言われて振り返ると、本当に荷車が来ていた。
道の端へ寄る。
通り過ぎた荷台には木箱がいくつも積まれていた。御者も知らない人だった。
「ヒルダ」
「はい」
「あの人、誰?」
「存じません」
「ヒルダも知らないの?」
「はい」
なんだか変な感じがした。
前なら、知らない人がいれば目についた。
誰が来たんだろう。何をしに来たんだろう。
それが、だいたい分かった。
今は違う。
知らない人が歩いていることが、少しずつ普通になっている。
「先生なら知ってるかな」
「聞いてみる?」
「うん」
ノエルと顔を見合わせた。
「では、わたくしは――」
「ヒルダはグレタさんと行くんでしょ?」
ヒルダが一瞬止まった。
「……はい」
「行ってきていいよ」
「ですが」
「ノエルいるし、屋敷に帰るだけだから」
「しかし――」
「私を連れて歩いても安全か調べてるんでしょ?」
昨日言われたことを、そのまま返した。
ヒルダが黙る。
グレタさんが笑った。
「一本取られたな」
「取られておりません」
「行ってきて」
少し迷ってから、ヒルダは私の前にしゃがんだ。
「寄り道はなさらないでくださいませ」
「うん」
「走らない」
「うん」
「知らない方についていかない」
「それは知ってるよ!」
「念のためでございます」
六歳の身体で歩いている以上、ヒルダが心配するのも分かる。
中身まで六歳ではないのだけれど、それをヒルダに説明するわけにはいかない。
「分かった」
「では、行ってまいります」
「行ってらっしゃい」
二人が歩いていく。
ヒルダが私から離れて、グレタさんと並んで街道を調べに行く。
少し前なら、考えられなかった。
「ココア」
「なに?」
「嬉しそう」
「そう?」
「うん」
二人の後ろ姿を見る。
そうかもしれない。
ヒルダが私のそばにいないのに、寂しいより先に嬉しいと思った。
ヒルダにも、私の知らないところでできることが増えている。
◇
「先生」
「はい」
「あの人、誰?」
屋敷へ戻る途中で見かけた男の人を指差した。
セバス先生が見る。
「さて。存じませんな」
「先生も知らないの?」
「わたくしを何だと思っておられるのでございますか」
「何でも知ってる人」
「光栄ではございますが、限度がございます」
先生が眼鏡を押し上げた。
「ここに暮らす方全員を、一人ずつ把握できる規模ではなくなりつつあるのでしょうな」
「そんなに増えた?」
「ココア様は毎日見ておられますから、かえって気づきにくいのかもしれません」
言われて、もう一度周りを見る。
水路も、道も、窯も、倉庫も、家も、店も知っている。一つずつなら、どうして作ったのかも、いつできたのかも知っている。
でも、全部が一緒になった景色を、ちゃんと見たことはなかった。
「先生」
「はい」
「私が知らなくても、増えるんだね」
「何がでございますか?」
「ここ」
先生が少しだけ目を細めた。
「左様でございますな」
水路を作ったのは、グレタさんと職人さんたち。
家を建てたのは、大工さんたち。
店を出したのは、商人。
畑を増やしているのは、農家の人たち。
街道を調べているのは、ヒルダ。
私が知らないところでも、みんなが自分で考えて動いている。
「すごいね」
「はい」
「ちょっと悔しいけど」
「おや」
「全部見たいのに、もう無理そう」
「それは諦めていただきませんと、わたくしどもが困ります」
「なんで先生が困るの?」
「全部をご覧になるために、ココア様が全部を歩き回るからでございます」
「……しないよ?」
「今の間は何でございますか」
「考えただけ」
「それをやめていただきたいのでございます」
先生がため息をついた。
でも、少し笑っていた。
◇
「あ」
新しい店の前で、足が止まった。
「ココア様?」
「見るだけ」
「わたくしは何も申し上げておりませんが」
「顔に書いてあった」
「……誰に似たのでしょうな」
店へ入る。
布、糸、針、服、靴、手袋、石鹸。
以前なら、この辺りでこれだけの品物を一度に見ることはなかった。人が増えたから店ができ、店ができたから、さらに物が集まっている。
「ココア、これ」
ノエルが布を持ち上げた。
「きれい」
「高い」
「戻そう」
「うん」
二人でそっと戻した。
そのとき、棚の下に並んでいるブーツが目に入った。
「先生」
「はい」
「ヒルダのブーツ、傷んでたよね?」
「そうでございますな」
現場へ行くことが増えた。
畑も歩く。水路にも行く。街道も調べる。
グレタさんに石や丸太を運ばされることまである。
昨日見たとき、つま先には擦れた跡があり、底もかなり減っていた。
「これ、ヒルダにどうかな」
一足持ち上げる。
「サイズが分かりませんぞ」
「あ」
そこまでは見ていなかった。
「じゃあ、ヒルダ連れてこよう」
「買われるのでございますか?」
「うん」
「ご本人は必要ないと仰ると思いますが」
「なんで?」
「ヒルダでございますから」
分かる。
絶対に言う。
「じゃあ、言われる前に買えば――」
「サイズが分かりません」
「先生、知らない?」
「存じません」
「何でも知ってる人なのに」
「先ほど限度があると申し上げました」
◇
「必要ございません」
やっぱり言った。
街道の確認から戻ったヒルダを、そのまま店まで連れてきた。
「まだ履けます」
「でも、傷んでるよ」
「修理すれば問題ございません」
「穴が開いてから?」
「その前に修理いたします」
「じゃあ、新しいのでもいいよね?」
「どうしてそうなるのでございますか」
ヒルダが小さく息を吐いた。
「護衛に必要な装備は、こちらで用意いたします。お気持ちだけで十分でございます」
少し考えて、ヒルダの足元を見た。
傷んだつま先。
泥の跡。
全部、私について歩いた跡だ。
「ヒルダ」
「はい」
「それが傷んだの、私についてきてるからでしょ?」
ヒルダが黙った。
「畑も行った。水路も行った。石のところも、街道も」
「それがわたくしの役目でございます」
「うん。だから買いたい」
顔を上げる。
「私が行きたいところに、ずっと一緒に来てくれたから」
ヒルダが何も言わなくなった。
こういうとき、どう言えば受け取ってくれるのかは分からない。
でも、必要なものだから、というだけじゃなかった。
「それに、これからも一緒に来てほしいし」
「ココア様……」
「駄目?」
しばらくして、ヒルダがブーツへ視線を落とした。
「……一足だけでございますよ」
「うん!」
「予備まで買おうとなさらないでください」
「まだ言ってないよ」
「お顔に書いてございます」
「先生と同じこと言う」
「長くお仕えしておりますので」
ヒルダが新しいブーツを手に取った。
それだけなのに、なんだか嬉しかった。
◇
「ココア!」
店を出ると、ノエルが待っていた。
手に紙を何枚も持っている。
「なにそれ?」
「聞いてきた!」
「何を?」
「畑!」
紙を渡される。
字だけじゃない。丸や線、よく分からない絵まである。
「これ、ノエルが?」
「字はお父さんにも書いてもらった」
よく育つ畑。育ちにくい畑。水が溜まりやすいところと、乾きやすいところ。黒くなった藁や家畜の糞を入れている畑と、入れていない畑。何を植えているのか。何年くらい同じものを作っているのか。
「こんなに?」
「ココアが見たいって言ったから」
「全部聞いたの?」
「まだ全部じゃないよ」
胸の奥が、また少し温かくなった。
私が一緒に回らなくても、ノエルが聞いてきてくれた。
「ありがとう」
「うん」
「すごく助かる」
「ほんと?」
「ほんと」
ノエルが嬉しそうに笑う。
二人で紙を見比べた。
「これ、同じもの入れてるのに違うね」
「うん」
黒くなった藁や家畜の糞を使っている畑でも、育ち方は同じじゃない。水の状態も、作っているものも、土そのものも違う。
「ココア」
「なに?」
「これ入れたら、全部いっぱい採れるんじゃないの?」
「たぶん、そう簡単じゃない」
「なんで?」
「畑が違うから」
「さっき私が言ったじゃん」
「言ったね」
「私の方が先に知ってた」
「うん。だからノエルに聞いてもらってる」
「……そっか」
ノエルが、ちょっとだけ得意そうな顔をした。
その顔を見て、笑ってしまった。
家は、同じ形にした方が早く作れた。
でも、畑は違う。
全部に同じことをすればいいわけじゃない。何が足りないのか、何が多いのか、水はどうなのか、そこで何を育てたいのか。
そこは、記録を集めてから比べればいい。
全部の畑へ自分で行く必要はない。
「これ、もう少し集まったら一緒に比べよう」
「うん!」
紙を揃えようとした、そのときだった。
「ココア様」
声をかけられた。
振り返る。
知らない女の子が立っていた。
私と同じくらいか、少し小さい。
「なに?」
「ココア様……ですよね?」
「うん」
女の子は両手で何かを持っていた。
小さな花だった。
「これ」
「私に?」
頷く。
「どうして?」
「お父さんが、ここに来てよかったって言ってたから」
「お父さん?」
「石を削ってる」
石工さんだ。
でも、誰なのか分からない。
顔も知らない。
「私、その人のこと知らないよ?」
女の子は少し不思議そうな顔をした。
「お父さんは、ココア様のこと知ってるよ」
「……そっか」
「水路とか、お家とか、いっぱいできたの、ココア様が来たからだって」
それは少し違う。
「私だけじゃないよ」
「え?」
「水路を造ったのはグレタさんたち。家を建てたのは大工さんたちだし、道も、お店も、畑も、みんながやったの」
女の子は困ったように花を見た。
「じゃあ……あげちゃ駄目?」
「ううん」
慌てて首を振った。
「欲しい」
「ほんと?」
「うん。ありがとう」
受け取る。
どこにでも咲いていそうな、小さな花だった。
女の子は嬉しそうに笑った。
「お父さんにも、ありがとうって言って」
「うん!」
走り出そうとした女の子を見て、思わず呼び止めた。
「あ、待って!」
「なに?」
「名前、聞いていい?」
女の子が、自分の名前を教えてくれた。
一度、頭の中で繰り返す。
「覚えた」
「ほんと?」
「うん。またね」
「またね、ココア様!」
今度こそ女の子は走っていった。
「ココア?」
ノエルが覗き込んでくる。
「なに?」
「嬉しい?」
「……うん」
花を握り潰さないように、そっと持ち直した。
知らない人が増えた。
その人たちは、私の知らないところで働いて、買い物をして、家族と暮らしている。子供たちは友達を作っている。
全部を知ることなんて、もうできない。
それでも、名前を聞くことはできる。
知らなかった人を、一人だけ知ることはできる。
そして私の知らないところで、この場所を好きになってくれている人までいた。
「ココア」
「なに?」
「畑は?」
「あ」
忘れてた。
「やる!」
「忘れてたでしょ」
「忘れてないよ」
「忘れてた」
「ちょっとだけ!」
ノエルが笑う。
私も笑った。
片手には、みんなが集めてくれた畑の記録。
もう片方には、名前を覚えたばかりの女の子からもらった小さな花。
どっちも大事だから、落とさないように屋敷へ戻った。




