死体が喋った日
最初に聞こえたのは、助けを求める声じゃなかった。
「――右だ。踏むな。そこ、落ちる」
耳元で囁かれたその言葉に、俺は反射的に足を止めた。
直後、つま先の数センチ先の床が、音もなく崩れ落ちる。黒い穴がぽっかりと口を開け、その底は見えない。もし一歩でも踏み出していれば、俺は間違いなく落ちていた。
「……は?」
心臓が遅れてドクンと跳ねる。冷たい汗が背中を伝う。
ダンジョン探索なんて、バイト感覚で始めたに過ぎない。低層の安全エリア、初心者でも問題ないとされている区画。それなのに、いきなりこれだ。
いや、それよりも。
「今の……誰だ?」
振り返る。誰もいない。パーティも組んでいないソロ探索。通路は静まり返り、湿った空気だけが漂っている。
なのに、確かに聞こえた。
声が。
「……気のせい、か?」
そう呟いた瞬間、また聞こえた。
「気のせいじゃねぇよ。いいから、壁沿いに進め。真ん中は全部罠だ」
はっきりと、断定する声。
俺は凍りついた。
視線を落とす。
そこにあったのは――白骨化した死体だった。
壁際に崩れるように倒れている、探索者の成れの果て。古びた装備、朽ちたバックパック。誰かがここで死んだ、その証拠。
そして。
「……お前、聞こえてんのか?」
その死体の“声”が、俺に話しかけてきていた。
思考が追いつかない。現実が歪んでいるみたいだ。
「ふざけんな……なんだよこれ」
「いいから動け。ここ、マジで初見殺しだ。俺ら全員、ここでやられた」
“俺ら”。
その言葉に、背筋が冷える。
俺は恐る恐る、壁に手をつきながら進んだ。真ん中を避けるように、一歩ずつ。
数歩進んだところで、再び床が沈む音がした。
さっき俺が踏もうとしていた場所だ。
「……マジかよ」
助かった。完全に。
偶然じゃない。明確な“情報”があったから回避できた。
「お前……誰なんだよ」
「元探索者だよ。で、ここで死んだ」
あっさりとした返答。
死んだ、と言った。
自分で。
「……じゃあ、この声は」
「知らねぇよ。気づいたらこうなってた。ただ、最後の記憶だけは残ってる。罠も、ボスも、全部な」
最後の記憶。
その言葉が、脳に刺さる。
「……それって」
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
「攻略法、全部わかるってことか?」
数秒の沈黙。
そして。
「まぁな。少なくとも、俺が死ぬまでの情報は全部な」
その瞬間、頭の中で何かが弾けた。
これ、ヤバい。
とんでもないスキルだ。
――【残留思念】
ふと、ステータス画面が浮かび上がる。いつの間にか新しく追加されていたスキル欄。その中に、確かにそれは存在していた。
死者の“最後”を再生する力。
つまり。
失敗した記録を、丸ごと拾える。
「……これ、使えば」
一度も死なずに、攻略できる。
その確信が、静かに芽生えた。
◇
それからの探索は、別世界だった。
「次、右の通路は行くな。ミミックだらけだ」
「了解」
死体の声に従い、俺は最短ルートを進む。
罠はすべて回避。敵の位置も事前に把握。ボスの攻撃パターンすら、先読みできる。
ありえないほど、楽だ。
まるで、答えを見ながらテストを受けているみたいだった。
そして、気づいた。
「……これ、配信したらどうなる?」
スマホを取り出す。探索配信は珍しくない。むしろ人気ジャンルだ。
軽い気持ちで、配信を開始した。
『配信開始しました』
視聴者数は、最初は数人。
いつも通りだ。
「えーと、今日はソロで低層回ります」
適当に喋りながら進む。
そして。
「この先、罠あるんで避けますね」
何気なく言って、床をまたぐ。
直後、背後でガシャンと音が鳴った。
コメント欄が、一瞬で動く。
『え?』
『今の何?』
『なんで避けた?』
俺は苦笑しながら肩をすくめた。
「まぁ、勘です」
本当のことなんて言えるわけがない。
だが、その後も。
「この敵、左から来ます」
「ボスは第二形態あります」
「この宝箱、罠なんで開けません」
全部、当たる。
コメント欄が、ざわつき始める。
『いやいやいや』
『なんで全部知ってるんだよ』
『ネタバレやめろw』
『これ仕込み?』
視聴者数が、じわじわ増えていく。
10人、50人、100人。
気づけば、見たこともない数字になっていた。
そのとき。
「――やめとけ」
耳元で、低い声がした。
さっきの死体とは違う、別の声。
「次の部屋、行くな。全滅した」
全滅。
その言葉に、思わず足が止まる。
目の前には、扉。
重厚で、明らかにボス部屋。
コメント欄が騒ぐ。
『行けよw』
『ビビってて草』
『ここが見せ場だろ』
俺は、扉に手をかけた。
心臓が速くなる。
でも。
声が、続ける。
「……首、飛ぶぞ」
ぞくり、と背筋が凍る。
具体的すぎる言葉。
俺はゆっくりと手を離した。
「……やめます」
その一言で、コメント欄が爆発した。
『は???』
『なんでだよw』
『逃げたwww』
『いや今のガチっぽくね?』
俺は、静かにカメラを見た。
「ここ、危ないんで」
それだけ言って、引き返す。
その判断が、どれだけ異常か。
自分でもわかっていた。
だが。
同時に。
確信していた。
――俺は、もう死なない。
そして。
この“声”を使えば。
どこまででも行ける。
コメント欄が流れる。
『なんでわかるんだ?』
『マジで怖い』
『こいつ何者?』
その中に、一つだけ。
違う種類のコメントが混ざっていた。
『それ、誰の声?』
指先が、わずかに震える。
俺は、笑った。
「……秘密です」
その瞬間。
視聴者数が、一気に跳ね上がった。
そして――
耳元で、また声がした。
「なぁ……次は俺の話、聞くか?」
ぞろり、と。
何人分もの気配が、背後に立つ。
振り返らなくてもわかる。
そこにいるのは、“まだ喋れる死体”たちだ。
俺は、ゆっくりと頷いた。
そして思った。
――これ、めちゃくちゃバズるな。
同時に、ほんの少しだけ。
取り返しのつかない場所に足を踏み入れた気がした。




