33・西播怪談実記草稿十四4-1
さて、同日。
枝吉城内中央部、城主の館では、既に降伏に向けた交渉が最終段階を迎えていた。
今回の講和について、寄手である三好方は非常に寛容な姿勢で望み、明石氏側に城主の処断や大きな処罰を求めようとはしなかった。むしろ籠城中の明石氏に気を使い、これまでの健闘を讃えて褒美を与えた上、他の明石方の諸将との話し合いの場を設けるなど、大幅に歩み寄り、逆に枝吉城側が訝しむほどの厚遇ぶりを見せた。
後世の歴史書の一つである赤松盛衰記によれば、この日、三好長慶の大軍が太山寺に入ったことに明石方が恐れ慄き講和を懇願したように描かれるが、これは三木別所方からの視点に近しいのかもしれない。
枝吉城方としては、明石家の名誉を第一に考慮する三好方の温情に皆が感激し、三好に降ることに一も二もなく賛成の声が上がった。その上で、城主への処遇、城兵らの命の安堵、籠城中に消費した兵糧の運び入れなどの要望を相談し合い、午後になって三好・赤松方への正式な降伏を申し出た。
多少協議に時間はかかったが、降伏した城主らの申し出は直ぐに受理され、三好方、明石方面軍の長・三好義賢の前に明石諸将は平伏するのだが、一点、寄手側より明石諸将側へ降伏に対して条件が付け加えられた。
「三木城南と西の街道の閉塞を、明石諸将が担え」
今まで赤松義祐の軍勢の役割だった街道封鎖を明石側に負担させ、赤松家は戦線を離脱。二ヶ月間の包囲戦では風紀の乱れこそ生じなかったが、節約に節約を重ねても長陣に対する兵糧の工面がそろそろ限界を迎えつつあったのかもしれない。赤松義祐らは帰還後、本国播磨において出雲尼子氏への反抗に備える。
この条件は、明石諸侯の従事先を三好軍にすることで同意がなされた。
明石諸侯の中には、少なからず赤松に縁のある家々が存在している。この合意が結ばれば、赤松家は彼らを手放し、摂津や東播磨の一部が三好氏の支配下に置かれる事になる。
もしもこの場に赤松晴政が在していたのであれば、交渉内容に少しは変化が見られたかもしれない。だが、元より赤松惣領家には、旧来の細川晴元との縁を切るだけの決定的な判断材料を欠いていた。
いかに三好長慶強しといえども、中央の政治を一家独裁で成し遂げるには政治情勢は易くない。京では三好政権になり数年が経つが、依然として足利将軍家の威光は侮り難く、特に近江の六角義賢の支援がある間は将軍家にも挽回の芽は残されている。
それに三好政権側も将軍家との決戦を望んでいない節があり、外交を通じて何度も和睦交渉を行なっていたのは周知の事実。
これから先、将軍家側と三好側と和睦する可能性が残されているのであれば、彼らが京に戻った際に、将軍家に味方する細川家を裏切った場合、再度逆賊の謗りは免れまい。仕方ない事とはいえ、一度将軍の首を切りながらも将軍家の許しを得て再興を遂げた赤松家としては、再度将軍家に見限ったと思われる行為は物質的にも精神的にもほぼ不可能といえた。




