23・芸州折敷畑合戦1-1
―3―
天文二十三年六月五日(1554年7月4日)、夜明け前。
視点を少し西の毛利氏に移す。
同年五月十二日、陶と袂を分かった毛利勢は瞬く間に重要拠点・厳島神社までの道を開いた事は既に伝えた。彼らは、安芸国佐西郡廿日市にある桜尾城に本陣を置き、周防国境の地侍達の取り込みに奔走していた。
対して、陶・大内方も決して不利だったわけではない。毛利氏の離反を猛悪無道の致す所と断じ、石見国三本松城攻略は継続したまま、重臣・宮川甲斐守房長に兵三千を預けると、毛利軍撃滅のために東に遣わした。
ここで両軍が重要視したのは、周防国山代。
周防国北部の山代地方は、山陰山陽の交通の要衝。ここが墜ちれば、街道沿いに石見攻めを行う陶軍の背後を突くことも、主力の出払った陶氏の本拠地・周防若山や大内氏の本拠地・山口まで攻め入ることも可能となる。
それだけに、ここ山代は両軍の戦略の今後を決める分水嶺となり得た。
ゆえに、毛利も陶も破格の条件を提示した。
毛利方は同地の有力者・神田氏、松原氏の二者に対して八ヵ所の領地を与えることで取り込み、陶を討ち果たせば追加で褒章を与えることを条件に説得に当たり、陶方は山代十三ヵ郷の長に再度臣従を誓わせる代わり、毛利軍を討ち果たせば課役一切を免除することを約束している。
両者それぞれに魅力的な提案だが、山代調略は陶方優勢。やはり軍役・賦役免除は別格。自分達の生活に専念できるという願ったり叶ったりの約定は土豪だけでなく下層の農民らからも支持を得た。
宮川軍は、山代勢を取り込むと、津和野街道に沿って東進するかたわら、安芸太田、吉和、山里などで一揆の扇動も行っている。
これまで数の不利を覆すために幾重にも策をめぐらし、機先を制すことで対陶戦を有利に運んできた毛利氏としては、これらの陶方の離間工作は看過できるものではない。両軍衝突の時は刻一刻と迫っていた。
「……宍戸殿、福原殿、陶方の様子はいかがですか」
「これはこれは。この様な所まで出張って頂かずとも宜しいものを」
暗い川のほとりで男達の声がする。
まだお互いの顔すら見えない時間帯。しかし、彼らの視線の先、折敷畑山では前日より陶の軍勢六千が陣を張っていた。
「正直な所、あの山を取られたのは痛うございます」
山頂に築かれた物見台からは桜尾の毛利軍全体の動向が見通せる。軍略上正しく、毛利軍にとっては目の上のコブ以上の厄介な存在。
「陶勢の数は」
「昨夜探らせた限り、あの山だけで二千か三千。恐らく総勢五千は下らないでしょう」
あるいはそれより多いか。
「……五千。それほどの軍となると、陶は総大将直々に軍を率いてきましたか」
「その可能性が大でしょう」