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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第二十章・西播怪談実記草稿十二【天文二十三年四月廿八日(1554年5月29日)~】
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22・西播怪談実記草稿十二6-2(天文美作合戦)

 迫りくる備中三村という前門の虎と、美作国全土に飛び火した土一揆という後門の狼。


 時を追うごとに一揆勢の規模と数が増し、その分だけ尼子軍は秩序回復に向けて兵を割く必要に迫られた。だが生死を懸けるのは尼子勢とて同じ。一揆勢を早期に鎮圧させねば、尼子軍自体が兵糧不足によって壊滅する。最悪の状況下において、今さら播磨に侵攻をかけ再度宍粟郡に運び込んだ物資を回収するなどという余力はどこにもない。


 そして、事ここに至っても、晴久派と新宮党の対立は避けられなかった。


 晴久は、直ぐさま出雲商人に頼み込み、日本海側から追加で物資を補充させるのと同時に、六月の七日には陶方との和睦に応じ、来訪していた陶方の将・益田藤兼(ますだふじかね)を通じて陶軍と停戦協定を結ぶことで、最大の敵である大内、陶を同盟側から切り離りはなすことに成功する。


 山陰山陽の大勢力同士の正面衝突を回避した晴久派は、次の一手として暴徒と化した土一揆勢を討つべく、美作一宮の中山神社を焼く方針を定めた。


 この判断に、叔父の尼子国久が苦言を呈した。


 新宮党としても必死である。新宮党は対大内の最前線である備中備後の二ヵ国を任されながら、備後を失陥し、備中国人衆も尼子に背きつつある。そんな中、新宮党が信を置ける領地は本国の出雲西部を除けば美作国の他にない。


「……その美作の一宮を焼くのであれば、それは即ち美作の民との縁を焼き切るのと同義である。その覚悟があってのお考えか」


 言葉の裏には、美作の共同統治を任された自分達新宮党との繋がりも焼き切ることになりかねないという意味も含まれていた。


 晴久と国久の関係が良好であったのであれば、まだ修復可能な範囲だったのかも知れない。晴久も納得できるたかちで舅を説き伏せられていたのだろう。


 だが、焦る晴久の目には、自らに進言する国久の姿が厄介なしがらみにしか映らなかった。


 経過はどうあれ、結果として叔父の国久は、備後戦線では軍略を誤り、播磨進軍にはケチをつけ、御着攻めでは当主たる自分の意見も聞かずに持ち場を離れて逃げ出している。


「…………」


 無言で軍議の場を離れた晴久だが、土一揆鎮圧の手を緩めることは一切なかった。


 尼子軍は六月を通じて一揆勢の鎮圧に当たり、各地で一揆勢を打ち破ると、彼らの本拠地である中山神社に迷うことなく火にかけた。美作で一揆の波が沈静化し始めるのは、出雲からの糧食が届き、播磨、美作間の交通路が復旧する六月の終わりになってからのこと。


 この間には、多くの人命だけでなく、多数の建造物や文化財が失われた。


 中山神社では山上の本殿をはじめ山中百を超える摂末社が尼子晴久の手によって焼失し、焼け残ったのは僅かに五つという惨状に、国久を始めとする新宮党だけでなく尼子氏寄りだった美作国人衆からも怨嗟の声が上がったという。


 七月を迎え、備前まで侵攻してきた備中三村勢を迎え撃つために再進軍する尼子勢の背後では、この夏を超えられなかった美作の民を弔う土饅頭や卒塔婆が群れをなしていた。


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