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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第二十章・西播怪談実記草稿十二【天文二十三年四月廿八日(1554年5月29日)~】
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22・西播怪談実記草稿十二3-1(天文美作合戦)


 ―3―



 同、五月廿一日(1554年6月20日)頃。


 尼子軍総大将、尼子晴久は遂に打つ手を出し尽くした。


 現在の姫路市と高砂市の間で行われた尼子軍と三木別所軍の合戦模様の一部始終を詳細の記した記録はそう多くはない。ただ、雲陽軍実記や江戸期の地元庄屋の日記、その後の戦況、幾つかの軍記物、口頭伝承などその総てで尼子軍の敗北に終わったことで一致している。


 どうにも尼子軍内部の対立は苛烈で、彼らは機能不全を起こしたらしい。


 攻勢当初、尼子軍総大将尼子晴久は、三木別所軍への奇襲をかけるべく部隊をおおよそ三つに分散させ、ひとつは御着城の抑え、あとのふたつをそれぞれ大豆崎(おおまめさき)、阿弥陀ヶ宿の襲撃に配置させたという。


 主攻と助攻。戦略としては正しい。


 だが、実際に三木別所氏攻略に参加したのはほとんどが晴久派に連なる武将で、新宮党に属する将の多くが参戦することを拒否していた。結果、晴久は、別所軍とほぼ同数かそれ以下の人数の兵で攻勢に臨んでいる。


 それもこれも、尼子国久と誠久親子らが三木別所軍との合戦に新宮党は参加しない旨を一方的に伝えてきた事にある。国久親子は、御着城の見張りと対岸の赤松軍への備えを理由に参戦を断り、御着の北の御国野に陣を構えるとそれきり微動だにしなかった。


 敵地という地の利のない場所に加えて、数の利すらも彼らは手放してしまった。


 恥を忍んで晴久が何度も頼み込んだところで、国久親子の頑迷な態度は変わらず、かねてより新宮党との対立が尾を引いていたとはいえ、二人のあまりの時局の読めなさに尼子晴久は絶望した。


 しかし、他に策らしい策が無いのも事実。


 結局、三木別所軍攻略は晴久派の軍勢のみで行われ、連携の取れない彼らは予想通り自滅した。


 豆崎の別所先陣は、背後の高御位山まで続く長く険しい山道。天然の要害を利用した別所軍は激しく抵抗し、尼子の陽動部隊も激しく攻め立てたが、別所本陣を動かすほどの損害を与えることは叶わず、両軍に無数の戦傷者を出すのみに留まった。


 焦った晴久派は、残った軍勢を束ね上げて阿弥陀ヶ宿に攻め寄せてみせたが、それすら別所軍は往なしてみせ、集落を盾に弓合戦の距離で数度の戦いが繰り広げられ、尼子兵らの接近を阻み続けた。


 消耗戦となれば、敗北は必至。


 進むも地獄、退くも地獄。それでも負けを認められない晴久は、主だった将を集めて再攻勢に向けての軍議を開いて見せたが、誰の目から見ても戦況を覆せるはずもなく、熱く語られる机上の空論のみが薄ら寒く飛び交った。


「……当主殿は居るか」


 尼子晴久の陣幕に突然現れたのは、従弟にして義弟の尼子誠久。随分と礼を逸している。


「なんだ。次はどんな無理難題を……」

「どうでも良い。我ら新宮党は引き上げる。急ぎ当主殿も美作へ迎えと親父殿から言伝を頼まれただけだ」


 状況が呑み込めない晴久派の将の眼が点になるのを見渡しながら、誠久はイライラした様子で美作撤退を急かす。


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