22・西播怪談実記草稿十二2-1(天文美作合戦)
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同年五月初旬、尼子にとって長い長い夏が始まる。
播磨が本格的な梅雨入りを果たす中、尼子軍の御着攻めは尽く失敗に終わった。
天文十四年以降、御着城主・小寺政職が手塩に手塩を掛けて築き上げた城郭は、西と南は市川支流の天川を天然の外堀とし、北から東にかけて川から引き入れた四重の内堀が豊かに水を湛える。
城の中央部には、三、四間の高さの本丸、その外側に二の丸が設置され、近くの斉藤山の見張り台が絶えず尼子勢の動向を見据え、尼子軍が外殻に近寄ろうものならば幾百幾千もの射手が寄せ手を狙い撃つ。
無論、それだけではない。
連日の雨も御着方に有利に働き、逆巻く天川の水は尼子軍の侵入一切を阻み続ける。痺れを切らせた尼子家当主・尼子晴久が、窮余の一策として水に達者な若者二十名ばかりを決死隊として送り込んだものの、天川の流れは決死隊が搔き集めた川舟を男達ごと濁流の中へ呑み込み、波間に漂う事すら許さず皆を溺死させた。
まさに播磨三大城の名に相応しい堅牢ぶりを、天文二十三年の御着城は誇り示したと言えよう。
しかしながら、尼子の軍勢がこうも後手に回ったのには明確な理由がある。そうでなければ、兵数でも将の質でも勝る尼子軍が、弱勢であるはずの小寺氏の良いように手玉に取られるはずがない。
同時期、尼子軍の東西では大きな動きがあった。
東側は、東播磨の三木別所氏。
美嚢郡三木を本拠とする三木別所氏は、自領真横の播磨後藤氏が仇敵尼子の軍勢を素通りさせたとの報を聞いて座して待つことはなかった。
彼らとしても、尼子の接近は一大事。三木別所氏は御着の東、姫路曽根近くの豆崎の高台を先陣とし、その背後の阿弥陀村(高砂市)に本陣を敷くことで、側面から尼子軍を脅かす。
そして西側。
遅れてやってきた赤松総領家も御着の西、西播地方最大級の規模を誇る壇場山古墳の丘陵部に着陣し、当主赤松晴政自身は当時まだ白鷺城と呼ばれる前の姫路城に身を置いて、川向こうの西側から尼子軍を圧迫していた。
御着に阻まれ、意図せず播磨内部に突出部を作り出してしまった尼子勢は、三方を敵に囲まれ、彼らが待ち望む室津浦上の補給部隊は英賀門徒の妨害を突破することが出来ないまま、はるか夢前川の向こう岸で立ち往生している。
こうなると、乏しい食糧事情は尼子勢を内部から確実に蝕み、雨中、温かな糧食にありつけぬひもじさと惨めさは兵士達を加速度的に消耗させていく。反乱の気配こそなかったが、食えぬと分かっていても播磨後藤氏の領地を荒らすわけにもいかず、晴久派の部隊からは陣中を去る逃亡兵の姿も見え始めた。




