21・西播怪談実記草稿十一4-2(天文美作合戦)
この選択がやがて尼子家に深い影を落とす結果に繋がるとは、まだ誰も知らない。
そして、この頃から尼子軍の兵士らの間で不吉な噂が漂い始めた。
曰く、この遠征はそもそも呪われている。播磨侵攻は悪手。美作で勝ったのは偽りで、その証拠に我らが通過した後に大山寺が燃えたではないか、ご本尊様すら我が軍をお見捨てになられたのだ、と。
大山寺は、中国地方最高峰の大山(磐角山)山腹にある古刹。開山は養老二年、地蔵菩薩を本尊に仏門関係者だけでなく、中央の比叡山、西国諸侯や山岳信仰の山伏達からも広く信仰を集めていた。
その大山寺が、遡る事三月二十三日の深夜、大規模な火災に突如見舞われた。
炎は本社(大智明権現社)だけでなく近隣房舎をことごとく呑み込み、数多の建造物、仏像を皆灰に変え、避難の遅れた本尊も焼失してしまった。焼け跡からは、かろうじて本尊を守護していた鉄製の厨子のみが発見されたという。
不吉の知らせである。
この火災の話を晴久が耳にしたのは、美作高田の着陣直後。出火原因の分からぬ不思議の火災に見舞われたとの報告を聞き、晴久は兵士の動揺が広がらぬよう被害の詳細を伏せさせた。
ただ、何も知らせぬのも不信感を煽るということで、火事があった事実だけを部下を通して兵士に伝えさせ、急ぎ高田での戦に勝利を得ると、すぐさま重臣多賀久幸を復興のために焼け出された大山寺へと向かわせた。
現在、久幸は寺院側が立てた三名の奉行(西楽院澄禅、経悟院朝円、大楽房慶仁)らと協力して修繕に当たっていると聞く。
だが、百聞は一見にしかず。遠い異国の地に居る人間が一度心に不安を覚えてしまえば、他人が幾ら言葉を並べて無事だと言ったところで、自分の目と耳で確認せねば容易には信じない。
しかも、旅人伝えに被害の詳細がひと伝えに兵士の耳に入るに従い、断片的な情報は憶測となってより悪い憶測を呼び、進軍を躊躇わせるほどの影響力を持ち始める。噂は播磨に深入りすればするほど悪化の一途を辿り、全軍の士気低下は避けられないものとなった。
事態を重く見た尼子家当主・尼子晴久も噂の払しょくを試み、途中、安志の加茂神社を詣で戦勝祈願を行うことで兵士達の鼓舞を行ったが、それも思うような結果は上げられなかった。
せめてもの救いは、美作後藤氏と播磨後藤氏が同族だったこと。
より正確には、美作後藤氏が播磨後藤氏を祖として派生した氏族。二派の分岐は承久年間(1219~1222)以前にまで遡る。
播磨後藤氏は、春日山城(福崎町)を中心に播磨中央部に大きく勢力を張り、尼子傘下に入った美作後藤氏の説得に彼らが応じてくれたことで、尼子軍の神崎郡通過はすんなりと事が運び、晴久らは胸を撫でおろした。
説得には龍野赤松氏に属する同じ後藤氏の一派・衛藤氏の口添えもあったとみられるが、史実としての記録は無い。
春日城主・後藤伊勢守基信は、同族の誼で尼子の兵士が乱暴狼藉を働かぬ限りは自領内の通過を許可するといった旨の条件を示したのみで、尼子への積極的な協力には拒んだ。食糧事情が改善したわけではない。
いわば停戦のような条件だったが、それでも不運続きの晴久派をにわかに喜ばせるには充分だった。
市川沿いを南下した先、姫路、飾磨まで辿り着けば彼らにも土地勘が出てくる。
十五年前、尼子の軍勢は姫路以東のこの西国街道を意気揚々と駆け抜けた。天文八年、大東征の際にはそこからさらに東進し、美嚢郡まで攻め入った。尼子の将の中で慣れない土地で見知った道に通じることに安堵を覚えぬ者は居ない。
確かその先にあるのは、小さな城の群れ。
せいぜい庄山か、御着の城か。どれも尼子軍の情報では中規模の域を出ない。合流前に立ちはだかるのは、町一つを総て巻き込んで作り上げられた英賀の城。あそこの門徒には過去の遠征においても難儀させられた記憶がある。
尼子軍は赤松家重臣小寺氏が守る庄山の城(城主不明。長浜長秋?)を突き崩すと、さらに歩を南に進める。
室津浦上氏への使者を先行させ、室山勢と連動すれば播州勢恐れるに足らず。室津室山は海運開け、食料備蓄は豊富と聞く。ならばどんな飯でも用意できよう。合流できれば美味い飯にありつける。
徐々に兵站に限界が見え始め、二人分の食料を三人で分け合いながら惨めに進む兵士達には、間もなく食事が改善されるという情報はなににも増して彼らを励ますことにも繋がった。
だが、彼らを出迎えたのは、食料を満載にした浦上政宗の荷駄隊などではなく、彼らの記憶にない巨大な城。播磨三大城郭のひとつに数えられるほどに、改築に改築を重ねた小寺一族の居城・御着城が姿を現した。




