21・西播怪談実記草稿十一2-2(天文美作合戦)
江戸時代、この話を聞きつけた春名忠成は、「にいに坂」の位置を播美国境にある「新見坂」ではないかと比定し、「新見に通じぬのに新見坂と呼ばれるとはなんとも怪しきこと。恐らくにいにが変じて新見と呼ばれるようになっていったのだろう」と書き残している。
これは佐用郡の昔話のひとつ、「真言坂」と呼ばれる坂と同じかも知れない。
真言坂は、急な峠道を越すたびに、皆が「ああ、しんど。ああ、しんど」と言っていたため、本来は「しんど坂」と呼ばれていた坂なのだが、時代が下るに従って「しんど」が「しんごん」へと変わり、遂には全く無関係の仏教用語の「真言」へと結びついている。
忠成の予想も、一概にない話ではないかも知れない。
この「にいに坂」の話は製本化された西播怪談実記には取り入れられず、その後、忠成の西播怪談実記の補記となる菊池景福の佐用里談にも伝えられていない。
その理由は不明。
単純に物語の時代が古かっただけか、佐用村の宿場町に雲州松江藩役所並本陣が置かれていたためか、あるいは、本陣と繋がりを持ち、忠成と親交の深かった佐用村の大庄屋・岡田光僴を気遣ってだったのもよく分かっていない。
ただ、忠成の時代から更に二百年後、昭和に入って語り手の老人が件の坂に赴いた時には、既に廃道となって久しく、未舗装の道が続く山道の中から「新見坂」を発見するには至らなかったのだそうだ。
また、大原町史によれば、尼子勢は同時期に新免左衛門尉宗貞の領する作州勝田郡真加部城も攻めている。
真加部城では、新免宗貞が一族の新免河内守、同喜太郎、同藤八郎、舟曳越中守らを守備に当たらせたところ、川副美作守久盛が軍勢五百余を率いて真加部城を二重三重に取り巻き息も継がずに攻め立て、城兵必死の防戦も虚しく少勢のため力尽き皆討たれていったという。
陥落間近となった時、城内からは舟曳越中守、新免河内守の両名がもはやこれまでと敵勢の中に斬り込み、川副方の侍小坂田、水島、難波、奥田等数十人討ち取ったが、遠矢に射られ、または鉄砲に撃たれ、舟曳、新免の一族は九十余名討たれて真加部城は遂に落ち、同地は川副久盛の領することになった。
かくして、枝城を落とされた竹山城は、翌朝より始まった尼子軍主力による総攻撃に抵抗する力を奪われ、残された新免勢は二日二晩戦い抜いた後、完全に包囲されきる前に城主新免宗貞が脱出したことで終結している。
多少の被害を出しつつも竹山城奪取を果たし、尼子軍は幸先良い滑り出しになったと一旦は士気を大きく上げることに成功した。
だが、浮かれ気分も長くは続かない。
間もなく城内に入った尼子諸将の目に飛び込んだのは、空になった倉庫の群れ。
城内に備蓄されていたはずに糧食は、籾殻一粒として尼子軍のためには残されていなかった。




