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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第十九章・西播怪談実記草稿十一【天文二十三年四月中旬】
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21・西播怪談実記草稿十一1-1(天文美作合戦)


―1―



 天文二十三年四月中旬。


 美作国吉野郡五名に、二人の武将の姿があった。


 武将の名はそれぞれ新免左衛門尉宗貞と井口与八。この五名の地は彼ら吉野郡の国人衆とは因縁深い。


「……やはり尼子の軍勢は多いな」

「見事なものです」


 その昔、天文元年に美作国東部へと尼子勢が侵入し始めたばかりの頃、新免氏は尼子軍と何度も激しく渡り合った事がある。


 当時、吉野川沿いには横山城という小さな城があり、横山城主・坂部(さかべ)大炊介(おおいのすけ)政次(まさつぐ)を筆頭とした新免氏に属する東美作の武将が強固な防衛線を引いて、新興の尼子軍などなにするものぞと気炎を上げていた。


 両軍の激突は凄まじく、地誌にも吉野郡の国人衆、尼子軍ともに死者累々筏を流すがごとしと記録が残るほど両軍に甚大な被害を出す戦闘となり、雄々しく戦いながらも坂部政次は大聖寺村にて戦死。横山城は尼子軍の手に落ちた。


 この時、新免氏側では、さらに渡辺源内、春名平馬、小坂田孫六、江見藤兵衛、小林平治の五名の勇士が川を渡って武勇を奮って皆討ち死を遂げた事を受け、彼らの雄姿を称えた村民らによって、戦場となった地域一帯には五名(ごみょう)の字名が与えらえたのだという。


 その他、郡境の特に戦闘の激しかった地にも「いかだなわて」の名が過去の戦闘の激しさを伝えていた。


 現在、二十余年前と同じく新免軍は眼前の川の地形を利用した防備体制を敷いていた。だが、往時とは異なり、今の新免軍の総勢は八百にも満たず、尼子の先遣隊とすらまともに戦える人数ではない。


「……民の避難はどうなっている」

「粗方は終えています。手筈通り川北(かわぎた)へ向かうよう伝えましたが、やはり一部の者は離れることを拒否しております」

「さもありなん。赤松様も浦上様も全力を尽くして下さると仰ってはおいでだったが、尼子を相手にするとなれば絶対の保証など無いからな」


 そう言いつつ、我らとて先祖伝来の土地を棄てる可能性もあると聞けば、簡単には離れられまいよ、と宗貞は肩をすくめた。


「皆には必勝の策と伝えましたが……」

「さて、どうだかな。だが、古くから三人寄れば文殊の知恵という言葉もある」


 気休め程度だがな、と宗貞が笑うと、与八は苦虫を嚙み潰したような顔になった。


 今回の戦略において、新免軍には、尼子軍主力を吉野郡へと引き入れるという重大な任務が課せられていた。勿論、宗貞自身が望んで志願したわけではない。しかし、赤松、浦上、毛利の三者が関わった策略とあらば、多少なりとも期待している。


 だからこそ、主戦場となり得る集落の領民には土地を離れて安全な川北へ向かうよう伝令を走らせ、吉野郡国人衆の旗頭として宗貞自身も最前線で物見を行っている。


「……先の戦、我らは上手く退()き過ぎた。多少でも尼子に失策を省みる頭があれば、昨年と同じ轍を踏むまいよ」


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