20・西播怪談実記草稿十2-1(天文美作合戦)
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天文二十三年四月六日(1554年5月7日)。
この日の尼子軍首脳部の軍議で提示された進軍経路は三つ。
第一案は、美作から備前国和気を経由して赤穂郡へと至る道。
この道は、昨年尼子軍が使用した経路。三路の中で最も距離が短く道幅も広い。
備前独立派の首魁、浦上宗景の籠る天神山さえ攻略できれば、あとは備前国三石までの道が開ける。そうなれば室津浦上氏の勢力圏までは目と鼻の先。西備前の松田一族は尼子とも同盟関係にあり、彼らの助力も得やすいという好条件も揃っている。
それだけに備前独立派が最も防衛に力を入れている。
この案は、武勇に優れる尼子氏の中でも特に武略に明るい大西某という武将が、「備後を失陥した今、後顧の憂いが無くなった安芸の毛利や備中国成羽の三村が美作を狙って兵を動かしても不思議ではない。松田一族は尼子にとっての大きな盾である。彼らをみだりに動かすべきではない」と意見を述べ、皆一同に頷き合い、賛同する者は少なかった。
第二案は、美作土居から播磨国上月に入り、赤穂郡へと至る道。
この道は、天文六年、当時当主だった尼子経久が京の都を目指した道。距離も程よく街道も整備されている。
懸念材料は上月城の陶軍。
家臣河副久盛らの報告では、総勢は不明だが三つの山に陶の旗が立ち並び、尼子軍の到着を今か今かと待ち構えているらしい。他の家臣からも、美作国高田での戦で陶の軍勢を見た者はなく、陶は兵力を温存させている。三山を覆うほどの軍勢であれば、少なくとも千や二千の陶軍を相手することになるのではないかという不安の声が漏れ出た。
この案は、新宮党派からの支持を集めた。
相手にとって不足なし。昨年の借りを返す絶好の機会であるし、多少の犠牲が出たところで一気呵成に攻め落とせば問題は無かろうと、尼子国久が鼻息を荒くして自説を述べたため、彼に賛同する新宮党員は口々にそうだそうだと声をわめき立てた。
第三案は、美作から播磨国宍粟を通じて室津を目指す道。
この道は多少遠回りになるが、美作国から直接宍粟宇野氏の領内を通ることで、播磨国境の敵防衛網を回避できる。
宍粟宇野氏は播磨国内を代表する親尼子派。最近赤松家と和睦したという話も聞くが、宇野氏の当主は尼子の恐ろしさを知っている。尼子の大軍勢が領内に侵入すれば、たちまち尻尾を振り直すに違いない。
進路上、問題となるのは東美作の新免氏。
吉野郡第一の堅城竹山城に拠る新免氏は、同じ吉野郡の国人衆を束ね上げて反尼子の旗印を担う。宍粟に入るには、新免氏の籠る竹山城攻略が必須となるため、彼らとの交戦は避けられない。
「……幸い、山名の太田垣氏は昨年の傷が癒えておらず、主君の振る舞いにも怒り心頭のご様子。太田垣勢が吉野郡へ援軍に来ることは先ず考えられませぬ」
そう報告する宇山飛騨守の言葉に、晴久は大きく頷く。
昨年、播磨を掠め取ろうとした山名四天王の一人、太田垣氏は宍粟宇野氏との間に激しい戦を起こしている。両者相当に疲弊しただけで戦は決着を見ず、山名総領家が四天王側に断りなく播磨側と同盟を結んだことで太田垣勢は播磨侵攻の大義名分を失っていた。
戦後太田垣氏には生野銀山関するに幾ばくかの運営権があてがわれたが、石見国大森銀山から灰吹き法が導入されたとはいえ、従来の設備を一新させる必要があり、それには莫大な金が要る。
新たな設備投資を考えれば、現時点で太田垣勢の得た権益は損失に見合うものでは到底ない。




