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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第十八章・西播怪談実記草稿十【天文二十三年四月五日(1554年5月6日)~】
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20・西播怪談実記草稿十1-2(天文美作合戦)


 窮地に陥った詮久は、将軍足利義晴から偏諱を受け名を晴久と改め、(しゅうと)にして叔父となっていた国久の力を頼るより他になく、翌十一年に大内・毛利の連合軍が尼子氏の本拠地・月山富田へと攻め寄せたこともあり、新宮党の軍事力なしには充分な防衛も行えなかった。


 新宮党の協力のもと、月山富田防衛線は勝利、尼子に協力的でない出雲西部の宗教勢力を従えるには新宮党の力は不可欠。その上、総領家と新宮党との間を取り持つ祖父の睨みがなくなったとなれば、新宮党員の増上慢は天井知らず。


 軍記物でおなじみ、晴久派の家臣、美髯で有名な中井平蔵兵衛尉が片髭となったり、大鼻もちの末次讃岐守が鼻骨を折られたり、知恵者の熊谷新右衛門が牛に乗ったりするのもこの時期の二派の力関係を表す有名な逸話となる。


 総領家に止める力がない以上、どれほど横暴な振舞いを行おうと領内政治は新宮党の顔色を伺いながら行われ、新宮党の独断専行ばかりが増していく悪循環。嫌気が指して晴久派から離脱しようとする家臣も出た。


 経久ほどでないにしろ、晴久もまた山陰を代表する名将。


 この力関係を自分の代で終わらせようと、新宮党を経由せずとも杵築神社に対抗できるよう、同じく古社の日御碕神社との親睦をはかり、美作国中部の支配も直接の親政ではなく、腹心の河副久盛を与力として遣わし、同地で大きな発言力を持つ三星城の後藤氏にある程度の権限を与えることで懐柔を試みる。


 その他、日本海交通には欠かせない美保関の掌握や、産出する銀と鉄を用いた大陸との密貿易にも力を注ぎ、自派の育成に全力を入れていた。


 だが、結果は知っての通り。


 昨年の播磨遠征は不調に終わり、次いで備後国での合戦に敗れたことで、比較的晴久派と親しかった備後国内の国人衆らは皆離反。晴久派のつまずきは大きく、晴久派と新宮党派の力関係は再度新宮党優勢に振り切り、相変わらず晴久は舅と従兄に頭を下げ続けている。


 この関係、息子の代まで継続させてなるものか。


 晴久派は、この遠征、室津浦上氏との合流を完遂するまでは出雲に帰らぬろいう並々ならぬ意気込みを有する。それとは対称的に新宮党派はとにかく目先の手柄を欲し続けている。両派の軋轢は歩を進めていくほどに、明瞭な不協和音となって尼子軍中に響き渡っていた。


 深夜、日付を跨いだ頃になって放たれていた密偵が戻り、美作国内情勢が判明したことで尼子軍は重要な選択を迫られた。


 今後の進軍経路は三つ。

 

 そのどれもが容易ならざる道で、密偵の報告を聞いた晴久は思わず天を仰いで罵声を挙げた。


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