20・西播怪談実記草稿十1-1(天文美作合戦)
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天文二十三年四月五日(1554年5月6日)、夜。
高田表において二度目の勝利を飾った尼子軍は、三日の内に、岩屋、小田草などの一時備前方に靡いた美作国中央部の五つの城を攻め落とし、美作国東部への足掛かりを完全なものにしようとしていた。
連日連勝の戦に尼子兵らは勇み、遠く出雲から運ばれる兵糧を輸送する手にも力が入ったが、その裏で、尼子軍首脳部は揉めに揉めていた。
理由は明確。今回の派兵について、尼子軍首脳部では当主晴久派と叔父の国久率いる新宮党派閥の間で致命的に意見が分かれていた。軍首脳部における二頭体制の弊害が顕著に出たと言い換えても良い。
晴久派は長期戦を見込んで兵力温存策を、新宮党派閥は短期戦を望んで積極策を、真逆の方針をそれぞれが主張して譲らない。
尼子家内部、こうした晴久派と新宮党の対立は今に始まったことではない。
二派の対立は、もともと当主尼子晴久の祖父、尼子経久が旧領主の塩冶氏を取り込むために自らの三男を塩冶氏に養子として送り込んだことに端を発する。経久の三男は当初こそ経久の意図に沿って動いたものの、天文三(1534)年、結局旧領主勢力に抗いきれず、尼子総領家に反旗を翻して敗死した。
このとき、自らの三男を自刃させた尼子経久は、新宮党を率いていた次男の尼子国久に三男の遺領を継承させ、旧領主勢力との折衝は総領家ではなく、出雲国西部の政治的を新宮党経由で行わせることを取り決めた。
これは、経久が権力分散を望んだと言うよりも、急拡大した尼子家の政治体制に経久独力では手が回らなくなり、長男を早くに亡くした経久自身には、残された次男に任せるより他に打つ手がなかった面もある。
一応、尼子総領家には嫡男の尼子詮久(後の晴久)も居たが、彼は当時まだ齢二十一。家督すら継いでいない。
対して、旧領主塩谷氏側には、杵築神社という強大な宗教勢力に深いつながりを持つ大熊氏や、出雲の鉄流通に欠かせない斐伊川水運の要衝をおさえる広田氏、上郷氏なども含まれていたために、渡りをつけるのに若い次期当主を矢面に立たせるより、尼子が誇る新宮党という分かりやすい軍事力で従わせる方が効率的だと考えたのかも知れない。
特に杵築神社は尼子と敵対しており、関係の修復は急務となっていた。
それに、経久三男の謀反の裏には、周防大内氏の暗躍があったという噂も存在していたことも、出雲・石見国境に武力集団を送らせた理由のひとつだと推察される。
実際、経久の読みは当たり、以前から尼子氏を敵視していた杵築神社との関係も、国久が旧塩冶氏所領内での事態収拾を成し遂げていく中で徐々に緩和され、この支配体制は経久の狙い通り、彼が亡くなる天文十年までは比較的安定していたことが伺える。
だが、この天文十年を境に、尼子総領家と新宮党の主従の関係が逆転し始める。
天文十年一月、前年より尼子総領家の意向で始められた安芸毛利氏討伐は、長陣になった上に関わらず、宮崎長尾で敵の援軍・陶晴賢隊から奇襲を受けて大敗。毛利戦に慎重な姿勢を見せていた重臣の大叔父の尼子久幸を失うだけでなく、味方からも多数の死傷者を出す結果に終わり、安芸国内での尼子総領家の威光は大きく損なわれていた。
そこに、同年十一月になって謀聖と評され、圧倒的な統率力をもっていた祖父、尼子経久が死去するという不幸が重なり、尼子総領家は危機的な状況に立たされることになる。