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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第十七章・西播怪談実記草稿九【天文二十三年三月二十日(1554年4年21日)】
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19・西播怪談実記草稿九3(第二次高田合戦)

 ―3―



 天文二十三年三月晦日(1554年5年1日)。


 ついにこの日、両軍の戦端の幕が切って落とされた。


 どちらが先に仕掛けたのか、申し訳ないがそれは分からない。


 業を煮やした尼子軍が北から出雲街道を力攻めしたのが始まりか、あるいは敵勢の罵声に耐えかねた備前独立派の先陣が誘いに乗ったのが始まりか。七条政範ら独立派第二陣に出陣要請が出た時には、主戦場は川向こうの高田村となり、独立派第一陣が対岸に孤立してしまっていた。


「……全員急ぎ駆け足ッ。御味方のために橋を死守ッ」


 馬上の備前兵の伝令が、ひと際よく通る声で主君の指令を伝えて走り去る。


 この日の陣容について、備前独立派の先鋒が誰だったのか詳細は伝わっていない。一応名前が分かる範囲であれば、備中国人衆の片山杢助久義と同弥左衛門氏勝の親子、美作国人衆で三浦元兼の一族・福田玄蕃勝昌と同助四郎盛昌らの親子がそれぞれ含まれていたという。


 対して、尼子軍の陣容については天正八年三月に編纂された雲陽軍実記に記録が残る。


 この日の尼子軍の先鋒には、真木隠岐守の嫡男・上野介を筆頭に、馬田、浅山、牛尾、桜井、多胡ら諸侯が選ばれ、その後方では、宇山飛騨守、河副美作守、森脇治部大輔、三沢三郎左衛門、立原源太兵衛尉、湯野、本庄、杉原等の尼子家重鎮が控える錚々たる第二陣を備えていた。


 独立派先鋒が二千。尼子軍先鋒は三千。


 個々にはそれなりに名の通った人物で構成された独立派の第一陣。だが、尼子の先陣と比較してしまうと(いささ)か見劣りしてしまう。


 なぜ独立派第一陣が地の利を棄ててまで対岸に渡ったのか、その理由は伝わっていないが、彼らは後方の退路を川に阻まれながら高田村に陣を敷く尼子軍先鋒と激しく切り結び、次いで、化生寺方面からの宇山飛騨守率いる尼子の別動隊に横槍を突かれるという圧倒的な不利な状況に置かれていた。


「……急げ。きっと本陣の大殿も援軍が送られる。我らの半数は橋を死守。残りは救援のために橋を渡れ。橋を渡れぬ者は徒歩(かち)で川を渡れ」


 そういって指示を出したのは、独立派第二陣の将・浦上四郎五郎周景。


 彼は、血走った眼で持ち場を離れた自軍の第一陣に罵声を浴びせつつ、物見の報告から現在可能な救援策を練ろうとしていた。


 久世の地名は、大きな湾曲を表す古い日本語の(くせ)が語源なのだという。大きく川を曲がった先の久世の本陣から高田までは凡そ半刻(1時間)の距離。第二陣の兵は備前と播州の国人衆からなる千五百騎。虎の子の精鋭をここで使うのか、と周景は逡巡する。


「行けば地獄。だが、行かねば彼らが滅ぶことは必定」


 最初ばらばらと散開していた第二陣の兵士らも、戦場が近づくにつれて徐々に足並みが揃い始め、川岸に迫る頃にはそれぞれ隊列が組まれていく。


 間もなく久世の本陣より浦上宗景からも突撃の下知が届き、周景も突撃の合図を出す。


 まだ水の冷たい春の川を、ざぶざぶと第二陣の兵士が渡り行く。水を吸って重くなった具足に加え、腐った川苔に足を取られて全身濡れ鼠になりながらも彼らは一心不乱に友軍の救援に向かおうとする。


 だが、対岸で彼らを出迎えたのは、側面、勝山に伏せた尼子軍からの容赦の無い銃撃だった。


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