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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第十七章・西播怪談実記草稿九【天文二十三年三月二十日(1554年4年21日)】
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19・西播怪談実記草稿九1-2


「どうです。凄まじいでしょう」


 巨岩には縦真っ二つに亀裂が走り、その裂け目を結わえるように注連縄が祀られている。


「……遥か昔、三韓征伐を終え、筑紫国(ちくしのくに)宇美(うみ)にて幼い応神天皇をお産みになられた神功皇后(じんぐうこうごう)が廃嫡を恐れた亡き夫の二人の息子の謀叛を聞きつけ、播磨国(はりまのくに)妻鹿(めが)の港から最も近くて高い山に登り、戦の吉凶を占うために麻弓で射て穿たれた跡なのだと言われています」


 撃たれた矢は三本。


 一本目は、飾東郡の的形(まとがた)の磐座を狙ったにも関わらず徒矢(あだや)(的に命中しない矢)となり、正反対の新在家の地に落ちたためにその周囲は矢落村と名付けられた。同地には、落ちた矢本体を祀った行矢社が建立され、時代の変遷と共に矢落集落の人間によって、現在の播磨総社に隣接する行矢射楯兵主(いくやいだてひょうず)神社へと遷座されていく。


 次いで二本目は、飾西郡青山、漢部(あやべ)の里に落ち、同じく漢部の村人は行箭(いくや)社を建てた。こちらは現在のJR余部駅の北西に石碑が残されている。


 最後の三本目は、ここ破磐神社の巨岩を見事穿ち抜き、皇后は占いの結果を吉とした。


 結果に満足した神功皇后は、新羅から連れて来られた人質の王子・箕子(きし)を播磨の国に留め置き、自らは二人の皇子を討つべく紀伊国へと旅立つ。


 残された箕子は、敏達天皇(びだつてんのう)の治世十年(581年)に揖保郡峯松山の地に鶏足寺を建て、この鶏足寺こそが日本における最古の寺院だという伝説が残る。


 戦勝祈願には最適の場所。


「はじめまして。自分は赤松政秀。宇野下野守と呼ぶ者もおります」


 巨岩前の二人の男は、龍野赤松の長兄と三男。三男の方は言葉を発さず、粛々と使者に一礼をして敬意を表した。


 三男の名は、川島頼村(かわしまよりむら)。通称は杢太夫。無口な男だが長兄に引けを取らない武勇を誇り、昨年播磨に侵入してきた尼子の軍勢と交戦した折には、国境の美作土居にて尼子兵の首級二つを挙げている。


「……失礼。本来であればもう一人弟がおるのですが、先に兵の一部と共に美作国へと出立させています。戦が近いため平にご容赦を」


 四男の名は、川島頼行(かわしまよりゆき)。通称は三郎四郎。政秀は末弟の頼行に部下十五名を率いさせ、備前浦上軍に付き従い北上させていた。


 使者も礼に応じ、二人の前に立つ。


「それで使者殿。お互い忙しい身、早速になりますが御用件を伺っても宜しいか」

 

 使者は頷き、懐から隆元からの書状を取り出して政秀に手渡そうとするが、その手を頼村が制した。突然の出来事に使者は眉根を寄せたが、政秀らに悪意はない。


「申し訳ないが使者殿。受け取る前にひとつ質問させて頂きたい事があります」


 不思議と政秀は勿体ぶった様子で、質問の答え如何によっては、赤松家として毛利氏からの書状を受け取ることが出来ない旨を告げた。受け取らない、ではなく、受け取れないのだという微妙なニュアンスを含ませつつ、使者も使者とて自らの役目を持つ。


 手紙を渡す役目を終えずに、主のもとへは帰ることが出来ない。

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