『毛利隆元の手紙』【天文二十三年三月十二日(1554年4月13日)】
この日、毛利隆元が書いた手紙は次のものが伝わっている。
「謹述胸念
(謹んで胸の内をお話しさせていただきます)
一 後生善所之儀、是非共に内心にはたと存置候間、心の及善根を致したく候事、
(来世極楽に生まれ変わるに当たり、私の心の内を知って頂けるよう存じ上げます。心の及ぶ善行を致したいと思っています。)
一 娑婆之儀にをいては、果報一事もなく候と観し候間、なにを恨むべき事なく候、前の世の報いを分別仕り候間、更に心にかかる事なく候。
(今生においてはいいことの一つもありませんでした。それについては何も恨むことはありません。前世の報いなのだと認識しております。気にかける事はありません。)
一 吾等一生之記、先度之易に見え候、申すに及ばず候、然る時は、我等無才無器量はかりにてもあるましく候か。
(私の一生は先の易で見えています。言うまでもありません。私が無才無器量なのも分かっています)
一 悴家も、愚父代にて数代始終納候と見え候、我等よりははや家雲盡き終わりまてに候、是も因果之道理に當候間、更に言うことなく候、をのつからの儀にて候。
(当家は父の代で数代、いつも満たされたように見えました。しかし、私からは家運も尽きるでしょう。これも因果の道理の常。今更言うまでもない事です。至極真っ当な理です。)
一 諸家の有様、沙汰に及ばず候、当国に於いても、尽く以ってはかり候事、明競之儀候、悴家はかり今日迄拘り候、不思議に存候、偏に愚父信心之故と存候、さのみはなき習にて候間、我等時にあたり、家の尽〔盡〕候時の主に生まれいで迄候、
(他家の有様をいうに及ばず、当国においても尽く総てが変わり行きます。その様な中、当家だけが変わらず存続しているのは不思議な事です。これはひとえに父の信心のためでしょう。私は父の様な信心を持っていないため、自分の家が尽きる際の当主として生まれたのです。)
一 悴家数代名を留め候事多候とは申さなから、愚父代にて数代に超越候、然る時は、吾縦令才覚器量候へはとて、愚父に及ぶべき事有るまじく候、縦令かの如く候へはとて、人の覚え莫大の劣たるへく候、況や一圓の時は沙汰の限りにあらず候か、
(当家には先祖代々名を遺した方が多いとは思いますが、父の名声は彼らを遥かに超えています。それ故、私に多少の才覚や器量があったところで父の名に及ぶわけがありません。私が形ばかりの当主として存在していても、家臣達からの評判は父に頗る劣ります。まして近隣一円の他家の者からすれば私などお話にもならないでしょう。)
一 其上、我等無才覚無器量之上に、家に人なく候、只今かように覺を取候と申候へ共、只偏に愚父一身之心遣辛労を以ってこそかくのごとく候へ、家に賢佐良弼なく候、御知見之前候か、
(その上、私は無才覚無器量な上、家臣に頼れる者がいないのです。只今は毛利の家も覚えが良くなっていますが、それはひとえに父が一身で人を心遣い、苦労してきたからです。私達には良い知恵を持って補佐する人間がいないことを知っていただきたいのです。)
一 偏に灯消んとて光ますたとへにて候、家運此時まで候か、理は能くさとり申候、存知なき迷事候、
(灯り消えんとして光増すという例えの如く、家運もこれまででしょう。理はよくわかっています。思い悩んでなどおりません)
一 兎角今生の儀においては存切候、偏に来世安楽之念願骨髄にしみ候間、頼み奉り候。
(とにかく、今生においては終わったことと思い、ひとえに来世が安楽であることを切にお願い申し上げます。)
一 右内心申し尽くし候訖。
(以上で私の心は申し尽くし終えました。)
一 かくのごとく存候とて、国家を保つべき事油断すべしとの事にては夢夢これなく、涯分ならざる迄も心かけ短息いたすべく候とこそ存じ置き候、其段少も疎心なく候、
(このようなことを思ってますが、決して国家のことを疎かにしているのではなく、心身を注ぐべきことだと思っております。そのことは少しも疎かに考えているわけではありません。)
一 右内心之儀は、奥意納之覚悟にて候、何に帰心之道理覚悟仕る迄候、
(以上のことは私の心の奥に収めているものです。帰心の道理を申し上げさせて頂きます。)
一 盛者必衰
(今は勢い盛んな者でも、必ず滅びます。)
一 生者必滅
(生きとし生ける者には、必ず死が訪れます。)
一 会者定離
(この世で出会った者には、必ず別れる時が来ます)
理は尽く以って覚り候、
(これらの理はすべて理解しております。)
一 天道満をかく
(天運にも見放されています)
理當て覚り候
(道理は分かっているつもりです。)
右更存知ざる迷候、速に分別仕り、さとり候、誠惶多候へ共、とても二世共に願い奉り候間、我等念を残らず尽くし候、頼み奉り候、恐惶
(このように思い悩んでいます。誠に恐れ入りますが、今生でも後生でもよろしくお願い申し上げます。思い残すことなく尽くしてまいります。何卒お頼み申し上げます。)」
天文廿三 三月十二日 拝進 恵心公
(1554年4月13日)
足下
タカ元(花押)
竺雲恵心……臨済宗東福寺の僧侶。大内氏の菩提寺の事務を務めた経験を持つ。
この時期の彼は京都東福寺の塔頭•退耕庵の庵主。
毛利一族、特に隆元からの信頼が厚かった。




