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ふたりの天下人ー西播怪談実記草稿から紐解く播州戦国史ー  作者: 浅川立樹
第十六章・西播怪談実記草稿八【天文二十三年一月一日(1554年2月2日)~】
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18・西播怪談実記草稿八1-1


 ―1―



 天文二十三年、正月。

 (1554年2月2日)


 深夜、除夜の鐘が鳴り響く中、この年最初の()の刻を回って年が明けた。


 年末年始、この鐘の風習が禅宗を通じて広まったのは室町時代。

 

 鎌倉時代に大陸から伝わった除夜の鐘は、新年に向けて鬼門から侵入してくるケガレを祓うとされ、一般には百七の音を前の年に、最後の一音を新しい年になってから突く。


 諸説あるが、合計百八の音は人間の煩悩の数を表し、あくまで俗説で申し訳ないのだが、比較的よく知られているのが、人間の六つの知覚を、好、悪、平の三つの感情に分け、大きく清と染の二つに分類したものを、過去、現在、未来の三世でそれぞれ掛け合わせた合計の数が由来なのだという。


 以前寺社関係の方に伺った話は、百八の数字自体に深い意味はなく、日本の八百万(やおよろず)という言葉同様、古代インドにおける多くの数を意味する言葉が百八なのだとにいう説を聞いたことがあるがいずれも真偽のほどは定かではない。


 さて、室町期の佐用郡では禅宗の寺は少なく、除夜の鐘を突いているのは真言宗系の寺院がほとんど。浄土真宗の門徒らは境内で焚き火を囲み、新年の挨拶に訪れる参拝客相手に白酒を振舞っていた。


 街道筋にあたるためか、佐用郡内の新年の祝い方については定型的なものではなく、地域性に富み、各家庭によってかなり差異が認められる。


 例をあげれば、鏡餅ひとつを取り上げても、玄餅(くろもち)を準備する家もあれば、現代と同じ白餅を用意する家もある。そうかと思えば、生米を塚状に盛り上げ、その周囲に煮干し、煎り豆、勝ち栗、昆布などの縁起物を置いて家族とともに元旦の朝に食す家もある。


 他にも面白いものであれば、歳神を招いた後、一斉に家中の雨戸を閉め、神様が中から逃げられないように手配して心から祝い尽くすといった儀式を行う家庭があったことも確認されている。それでも、多くの家庭で共通の習わしとして、前年から取っておいた囲炉裏の火で元旦の雑煮を炊くといった内容のものが伝えられている。


 方法は種々あれど、新年を祝う気持ちは皆同じ。


 通年であれば、七条屋敷では玄関を松で飾り、戸口には歳神様を呼び込むための灯火が明々と満たされ、室内、鎧具足の前に段重ねの餅を供え、広間には当主が一族を呼び集め、(とら)の刻(午前三時から午前四時)から始まる年賀祝いの宴席が用意されていた。


 しかし、この年は前年に嫡男・正満を亡くしたためか、漏れ出る灯火もなく、下男下女が帰った屋敷は静かな正月を迎えていた。


 佐用則答の菩提寺は上月城(太平山城)の南、紫雲山盛徳寺。しかし彼が正月に寺を訪れた記録はない。


 当時の宗派は定かではないが、政範と雪姫の婚礼が一般的な喪中期間である死後四十九日や三ヶ月を超えて行われているところから、佐用則答は領主として各宗派に配慮していたのかも知れない。


 政範の父・七条政元も総領家に断りの書状を送り、置塩の年賀の祝いへの不参加を決めていた。


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