17・西播怪談実記草稿七4-2
現在、播磨国内の親尼子派は各地で分断されている。
ゆえに、点と点を線で結び直すために、出雲から更なる出兵を促す必要があった。そのために、政宗は尼子氏に完全に恭順の意を示す覚悟がある旨を伝えていた。
具体的には、嫡男を出雲尼子の元に送り届けること。
一日千秋。
待ちに待った返答は、「当方援軍の用意あり。至急人質を送られたし」。
備後での雪辱を果たさんとする尼子家家中では、その失態を播磨備前で取り戻さんと動き始めたと聞く。今度の派兵においても、前回以上に部隊の規模を増やし、当主尼子晴久を始め、美作方面軍の川副氏や江見氏、尼子一族の誠久ら新宮党など、出雲尼子氏が総力を挙げて出兵してくるだろうという噂も聞いている。
しかし、噂はあくまで噂。政宗らには願うより他に手がない。
政宗の側付きも、手持ちの火で大きく円を描いて肯定の意を伝えると、船上の水夫は大きく頷くように二度炎を上下させた。あちらも了承の意なのだろう。次いで、水夫が炎を大きく旋回させ、船体を沖に戻すことを身振り手振りで伝えようとするのが分かった。
「あれはどういう意味だ」
「……おそらく室津には寄ろうとも寄れぬのでしょう。このまま夕刻になれば風を切り上がるkとが困難になりますからな」
冬、荒れた海路では接岸に大きな危険を伴う。眼下の岩場に打ち付ける波にも白い花が混じり、時刻が遅くなればなるほどに、吹き下ろす陸風によって波は更に荒れ狂う。
上陸するのであれば、回頭の機会はあと数度。
「我らの待ち人未だ来ず、か」
「七条の小倅には良き伴侶が来たのに、ですかな」
佐用郡、七条屋敷にて行われた祝言の話は広く知れている。
「……次郎殿(赤松義祐)は祝いの品に珍陀の酒を贈られたと聞いております」
「それは、なんとも豪奢なことを」
珍陀の酒は、舶来の葡萄酒。語源はポルトガル語で赤を意味するティントに由来しているとされる。寛永年間(1624~1644)、豊前国小倉藩主・細川忠利が国産ワイン製造を指示するまで、日本国内で葡萄酒を入手するには輸入か宣教師らからの贈答品等に頼らずを得ず、非常に希少な代物と言えた。
赤松の嫡男に美食の業を教えたのは、他でもない政宗自身。
自領だけでなく、室津の港から揚がる銭はこの時期の赤松総領家を遥かに上回る。赤松義祐がまだ道祖松丸と呼ばれて浦上氏に預けられていた人質の時代、頭領の息子に相応しい暮らしを、と奢侈な生活を提供してきたのだが、それは室津という大きな財源があってのもの。
置塩の地では、財の確保に限りがある。
「人は、生活の質を簡単には下げられぬ」
一度、贅沢の味を覚えてしまえば後は欲望の業に沈むのは早い。この手の毒は後から効く。
聞く話では、自ら料理人を従えて日々珍食奇食の研究にも励んでいるという。
「……酷な事をされましたな」
言葉面では義祐を憐れんでみせるが、傍付きの者の声色には赤松家の次期当主のことなど心底どうでも良さそうな感情が透けて見えた。
「そういえば、宇喜多の花嫁とやらはどんな女か」
「それが、どうにも体調が優れぬとかで直ぐに奥に下がったとか」
「……さもありなん。何処ぞの馬の骨とも知れん女風情がこの播磨の政治の舞台に出ようなどとおこがましい。去ね去ね」
親尼子派に与する宇喜多大和守の系統と、備前独立派に与する宇喜多和泉守の系統。
いかな浦上氏当主といえど関連する国内外総ての血族を脳内に入れているわけではない。しかし、和泉守の系統が養女を入れ、その娘が佐用七条家と縁を結んだ事実は内偵からの報告が入っていた。
ほーいほい……。
ほーいほい……。
水夫らは直接の接岸を諦めたらしい。傍付きの推測通り、船体から手漕ぎの小舟が下ろされ、室津港のある入り江へと向かい始めたのが見えた。