17・西播怪談実記草稿七3-2
「ええ。どうぞ」
六畳ほどの板間に再度三人の人間が揃いぶむ。
「聞いての通り、この娘は宇喜田殿の御養女ではあるが、高國殿の血を引くという。当家に嫁がれる縁を結ばれたが、これも因果か」
よもや享禄四年の過去が追いついてくるとは、夢にも思わない。
「しかし、その事実を伝えるのは我らのみで留めねばならん。」
現在、赤松家と細川家の関係は冬の時代を迎えている。
細川高國を討った後、長らく高國の政敵であった細川晴元派に属してきた赤松家だったが、今の都は同じ細川氏の細川氏綱が政治面の長の管領職に付き、軍事面では元細川家臣・三好慶長が手綱を握っている。
今年八月、巻き返しを図った晴元と将軍・足利義藤(後の義輝)だが、京都東山で三好の軍勢と一戦も交えることなく近江朽木谷へ逃亡したことを受け、赤松総領家では家の存続をかけてどちらの勢力を支持するかを決めかねている。
「……晴政の奴はそれでも将軍家側に残ろうしているが、息子二人からは早く三好殿への御挨拶に向かわねば当家の覚えが良くないだろうと連日責められているそうだ」
風前の灯火のような将軍家だが、その威光は決して無視できるものではない。聞く話では、河内の畠山氏や近江の六角氏だけでなく、越前の朝倉氏や越後の長尾景虎、甲斐の武田晴信らにも救援要請を出している。
未だまとまらぬ赤松家中において、少女の素性を下手に明かせばそれだけで政治利用をされかねない。否、現状でも十分利用されているのだが、中央政権まで関わるともなれば七条家など吹けば飛ぶような存在。政界の海では浮かぶ瀬もない。
「この娘を今の都に向かわせるのは、あまりに不憫だろう」
少女にとって幸いだったのは、政範も政元も少女の外見を驚きこそすれ、最初から恐怖の対象とは見ていない。
この物語の原作者、春名忠成の残した原文では「政元、娘の前世の業とはいえあまりに哀れに思い~」との記述があるのだが、私にこの物語を教えてくれた老人の私見では、政範ら二人が少女の特殊性に寛容だった理由として、二人に因幡の白兎伝説(※)の素養があったのではないかと推察している。
身体的な特徴の著しいアルビノは、地域によっては見世物や嘲笑の対象にされた一方、信仰の対象として神聖視もされている。
出雲街道と因幡街道(智頭往来)が交わる佐用郡では、かなり早い時期から出雲系の伝説がひと伝えに運ばれてきた形跡が見受けられるため、自然と他の地域に比べて白子に関する見識と造詣が深くなり、因幡の白兎を連想させる少女の存在を許容する政範らの認識にも少なからず影響を与えたのではないかとの推測だが、それはそれで一理ありそうな気がする。
※……鳥取県内には、因幡の白兎伝説や天照大神の道案内をした白いウサギの伝説(八頭町)など、白いウサギにまつわる伝承が幾つか存在している。