17・西播怪談実記草稿七1-2
一行の南下は続き、福澤村から本位田村へ。少し集落の規模も大きくなる。
花嫁の荷駄は父と娘の別れの膳の前、午前中に先行。道すがら、村の境ごとに荷受唄を歌いながら七条家の用意した人員が荷を受け取って運ぶ。
播磨西部、播磨五川のうち特に市川以西の地域では婿入り婚が主流。
自分達とは違う京風の武家の嫁入り婚に立ち会う機会は珍しく、通過していく花嫁の姿を一目見ようと、村の子供らが親の注意も聞かず手伝いの途中でも駆け出す。
が、その子供らは、少女の付き人達によってあしらわれた。
彼らとて子供の気持ちも分かる。別段邪険にしたいわけでもない。
今回の婚礼は外交目的。万が一にも失敗は許されない。付き人には付き人として、少女を泥汚れ一つない状態で目的地まで送り届けなればならない責務がある。
また、一行が順守せねばならない制約として「自分達が来た道を決して引き返してはならない」というルールが存在する。これは嫁いだ花嫁が出戻りにならない様にという願掛けの意味があり、もし道で牛飼いや馬借と行き会うことがあれば、道を譲ってもらうか、あるいは相手に道を戻ってもらうよう頼み込むのも付き人の役目となった。
本位田の方まで出てくると、比較的道幅も広くなり川の水量も増え、全国どこでも見られる冬の泥田風景が広がってくる。この時代、まだ乾田ではなく湿田が主流。村に生産性の高い乾田用の灌漑設備が施されるのはずっと後となる。
本位田を抜けると、今度は長尾村へと入る。一行は、集落の中にある小さな庵の近くで小休止を取る。
大撫山麓の長尾村には、嘉吉年間までは巨大な寺院が存在していた記録が残る。
寺院の名は、宝光山鶏旭寺。白鳳末期か奈良時代初期に建立されたとされる七堂伽藍と五重塔を併せ持つ広大な寺院で、嘉吉元(1441)年、赤松軍と山名軍がこの長尾を舞台に戦火を交えた際に、鶏旭寺も戦禍を逃れることが出来ず、山名軍総大将山名宗全の手によって焼かれたと伝わる。
その時、炎上する寺院から一つの大きな火の玉が長尾の裏山へと飛び去って行くのを大勢の人間が目撃しており、火の玉は山の何処かへと落ちて消えた。
数年後、裏山が光るようになり、火の玉が落ちたと思しき地点から大きな木の洞の中から小さな仏像が発見され、高名な僧侶の手によって木の洞ごと胎内仏を彫り出され、一体の薬師如来坐像として仕上げられた。
この胎内仏は秘仏として扱われるようになるのだが、裏山から発見された秘仏は当時の仏教の定石で彫られたのではなく、景教(ネストリウス派キリスト教)の影響を受けた異色の仏だというから非常に興味深い。
ともかく薬師如来が祀られた庵は、浄光山長楽庵として現代まで残されている。
庵を通って更に南下すると、佐用村の北、栄華を誇った鶏旭寺の境内跡地を利用して佐用氏が築いた佐用構へと辿り着く。
七条屋敷まではもうすぐ。冬の陽は短く、坂を下った一行が七条屋敷に辿り着く頃には周囲はとっぷりと日が暮れていた。おおよそ二里の行程を少女らは通常の三倍ほどの時間をかけて歩いた計算になる。
七条屋敷の前では、松明を焚いた出迎えの者が花嫁の到着を今か今かと待ち侘び、少女が到着すると歓声を上げて出迎えた。
少女の道行はここまで。二人の挙式はもう間もなく始まりを迎える。




